自分の判断で善悪を決めたり、自分の判断によって良し悪しを定めたりはその人物の価値観で行っている。
そもそもこの世の中には、必要不必要の区別のなくそもそも渾然となっているものであり何も有用無用の別はない。
しかし過去からの知識や経験、一部の切り取られた社会の中でだけで生きていたらその刷り込みにあうのであろうとも思う。
そもそも自分にとって都合の良い物が正義であったり、自分にとって都合の悪いものを悪だと、常にその中心軸を自分そのものにしていたら元々あった自然の姿で物事を純粋に観ることはできなくなる。
自分が如何に偏見を持たないようにしようとしても、その判断は自我の形成の中で培われたものであるから幼児期に、両親をはじめ周囲の大人たちによって植え付けられた良し悪しの価値観はずっとその後も残っているのである。
発達というものを観るときも、普遍的な場所や相手のものとして観ているのではなく自分の解釈や物差しがそこに入れば正しい発達を見取ることはできない。
一般的にはそのものの特性を知っていたとしても、あくまで推測であり自分がどのように相手を観ているかは自分の観方なのだから相手のあるがままを捉えることもない。
きっとこうだろうや、多分こうだろうなどという自分の先入観や思い込みにより相手がそれに単にあわせてくれているだけだったりもするものだ。
人間関係も同じく、自分都合で解釈していても本当は異なっているという考え方もある。何を信じるかというものでも、単に自分が信じたいという、自分の思い込みや自我欲が入れば正しい見解はありえないのである。
そのものの判断に私欲を入れずというのはとても難しいことである。
如何に世の中全体のためになるか、如何に心の声を聴いて全体に調和し素直に無我に行じていくか、まさに人生は修行だというのはこういう無我のところにあるのであろうとも思う。
自然の赴くまま、自然に阿るままに自らあるがままの境地は、自分のありかたから見つめて見直していく必要がある。
そう考えると、逆転の発想ではないけれど行き詰まり停滞すれば丸ごとひっくりかえせば無限に学ぶものがあるのである。
学びの楽しさに触れると、道の歓びもついてくる。
これからもどんどん豊かにかんながらの道を学びあっていきたい。