発達や自立を考えるとき、そのものの徳性という命をよく観察し、環境を構成しているものの中で人間がどこまでやることが見守ることなのかというのは大事なことになる。
やってあげすぎれば、そのものの持っている命の力が弱まり、放任しすぎれば過酷な環境の中で命を活かす前に枯れてしまうものもある。
自然界は、もともともあった自然の中でそれぞれが調和をして永続する悠久の時を共有している。
そこに人間が自分たちの意図するものを植えて育てるということの中に、栽培するというものがある。
循環の社会の中でどのように自立できるものを育てるか、自然と共生していくということはあくまで自然の循環を活用しその中で自然の叡智を活かしつつ自分たちの知恵と工夫で調和していくことをいう。
それはつまり命の流れともいうべき、脈々と続いている大本から命をお借りしてお返しするということに似ている。
例えば、野菜などでも見た目には大量にいくら収穫があったとしてもそこにそのものの命が詰まっているものと中身がスカスカなものでは本当の意味で自然に命を受け取ることができるかどうかはまったく違う。
西洋式の経済重視の食物は、科学的な栄養などを重視し大量生産できるように数も大きさも相当なものを目指して栽培する。しかし自然農のようなものは、取れる量も少なく、また大きさも小ぶり、形も違えば味も違う、しかしそこにそのものの命の個性がびっしりを詰まっているものが多い。
その証拠に、前者は一口ですぐにおいしいかどうかもしくは料理で様々な調味料を必要とする。後者は、ほとんどの調味料はいらず新鮮そのものであればそれだけで身体が美味しいと自然に受け容れるのである。
私たちは一体何を食べているのかということを再定義しなければ、本当の意味で生きるという営みの中での食べることにはならないのであろうとも思う。
子どもたちのことも似たようなもので、一斉画一に同じようなものをたくさん作ることが善いと定義されている世の中で本当にそのものの命が輝くような環境を教育者は構成することができているのであろうか。
そもそもすべてのものを排除せず如何にそのものの持っている特性や発達を活かして環境をデザインするかというのはその人間の持つ自然観による。
その人間が一体何を信じているかが重要で、その信じているもの次第では本当の意味での命は観えることはない。
自然の中で育つというのは、大いなる見守るの恩恵を受けていることを傲慢にも忘れ自然の循環から離れればまさに本末転倒なのである。
今は、何でもお金で買える世界、そんな中でお金では買えない本当の贅沢とはどういうものなのか、そこをヒントに新たな可能性を見出していきたいと思う。
経済も道徳も一致する循環の理を主軸に、すべての人物事を包括して新たな道を模索していきたいと思う。