できない理由

人には何かをできない理由というものがある。

それは能力的にできないというものとは別に、やりたいことが他にあるからできないというものがある。

本来、自分らしく素のままでいるというのは自分のやりたいことを存分にやっているときにその人はその人らしく輝くことができる。しかし、それだけをやるには一人ではできず、当然多くの人たちの力をお借りしなければならない。

その際、誰かがやりたいことのために我慢するのではなく理想はみんながやりたいことをあわせていく中で自然に調和するような状態が共生や貢献の姿であるようにも思う。

自分が明確になればなるほどに、周囲が明確になるというのはそういうことでもある。

社会というものは、そうやってそれぞれが多様性を発揮し発展と繁栄を続けていけるような仕組みが生命活動の根本的なところには存在する。

しかし現状ではそうではなく、本来のやりたいことを我慢してやりたくないことばかりをやらされるというシステムが横行し、非循環社会のバランスの悪い不調和の中で無理を続けて衰退と疲弊するという状態になっていくものであると思う。

そもそもそういうものを創りだしているものには、一人一人の人間のプライドであったり欲望といった自我欲が根幹を占めていることが多い。

人間を裁くあらゆる仕組みが、階級と偏見が生み、上下を発生させ、足るを知ることのない限度のない欲を際限なく作り出していくのであろうとも私は思う。

まず「一人ではできない」ということを理解することは大切なことである。

できないのは自分があるがままにやりたいことがあるのだと信じるところからがスタートなのである。だからこそ人と助け合い協力し合おうと心から思えるのである。

経営者やリーダーは、自分の素のままの姿でいるということを大切にしていかなけいといけない。そうでなければ、不調和を生み、社会や組織に影響が出てくれば本来の貢献の意味をはき違える事にもなる。

他人の人生を生きるのではなく、自分の人生を生きてこそのリーダーであり真の模範でもある。

子どもたちのためにも、何ができて何ができないのか、その本当の意味を伝えていけるように自分らしく生きることを尊重していきたいと思う。

本当の自分に出逢えず、苦しみ迷い、もがいている人たちは本当にたくさんいる。そのことから自立できずに、真の幸せに辿り着けない人たちもたくさんいる。とても他人事ではなく、子どもたちの未来のためにも今、此処が放ってはおけない。

だからこそ、刷り込まれる前に早くからその人のあるがままを見守り信じることができる人が多くいることが世直しをする道でもある。

子どもたちへいつもの親心としての眼差し、「できないに気づけて善かったね」と許し認めることができる自分でいつまでもそうありたいと思います。