新たな旅路

人は旅をすることで様々な自分に出会うことができる。

過去に出会った風景との出会い、過去に出会った人たちとの出会い、過去のすべての出来事との出会い、そういうものも新たな旅路の中で出逢うことができるもの。

歩み続けるとういう日々は、常に今の自分との真の正対であるようにも思う。

どのようなことにありのままの自分が向き合って、日々の自分を刷新していくか、そうやって向き合うことこそが成長することであり、その実感することで人生を楽しめるようにできている。

先日、恩師との懐かしい旅を再び新たに楽しむ機会があった。

御互いの今までの成長ぶりや、歩んできた道程を確かめることで生きるということの真の歓びを語り合うことができた。

今では昔は分からなかったことが分かるようになったこと、今まで分かっていたことが実は分からないことだったこと、一生の中で真の人格を陶冶していくまで終わらない始まりの時間は常に旅路の最中にこそ存在しているのだ。

これからどんな新たな扉が開いているのだろうか、そしてどんな素晴らしい旅をまた楽しむことができるのか、その時まで、真摯に今の自分を生き切ることこそが旅をより明るい未来への希望へと導いていくのだと思います。

私たちの目指す思いやりや真心の道は、日々足元の実践と現場にこそ存在しています。

これからも共に歩んでいく中で、確かめ合い励まし合い、そして支え合いながら元気に自らの道を開拓していきたいですね。

素晴らしい時間を与えてくださったこと、それを見守ってくださった周りの方々、色々な御蔭の上にあるこの真の自由を心の感謝にかえて明日からまた新たに向き合っていこうと思います。

次回、同行する日をまた楽しみにしています。

一期一会の旅路に感謝。

子ども心8

子ども心の八つ目には、「はい」と素直に言える正直な心がある。

子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観て正直の心を持っている。

例えば、嘘が一切つけなかったり、思っていることをそのままに口に出したり、隠し事ができなかったり、表裏などもなくそのままに物事の本質を見抜いていたりする。

そしてこの「はい」には、自然が大きく命をあわせている中ですべての存在がありのまま正直であるという気持ちを同時に感じきっているのである。

子どもにとっての自然とは、嘘偽りのない心であるがままの現実をそのままに感受する素直な感性そのものなのである。

理由や理屈などはなく、ただただこの自然の姿を心で捉えている感性が生きているのである。

この命が響き合う世界で、それぞれが自分の命に正直に生きようとしている。それがどんなものであろうが平等に存在しているものをそのままに認めている心があるのである。

この「はい」と素直に思える心は、子ども心のことである。

いつも自分が嘘偽りない自分の心の素のまま真っ直ぐにいることが命のままでいることを真心で受け取っているのである。

次第に大人になるとそうではなく、表面上でうまく誤魔化すことを覚え、周囲を気にしてあわせていき自分の心を隠そうとするようになってしまう。

子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに自然を感じているから自然に「はい」と純粋な心で正直の言霊を発しているのである。

これを子ども心の八つ目として書いておきたい。

今回は、子ども心を八回に分けて書いてまとめてみた。

子どもはなぜ無限の可能性を秘めているのか。
子どもはなぜこんなに愛らしいのか。

私にとっての子ども心とは素直正直な心、純粋無垢な心、宇宙本源の心を感じることができる唯一無二の場所である。

これからも子ども心を大切にしていきたいと思います。

子ども心7

子ども心の七つ目には、「遊ぼう」と素直に好奇な本能を開いている心がある。

子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観て本能の心を持っている。

例えば、虫を叩いたり何かを壊したりと残酷なことをしてみたり、そのあたりのものを手当たり次第扱いまわしたり、様々なことを好き勝手にして飽きるとまた捨てるように子どもは刹那的な感覚で無心にやっていることがある。

そしてこの「遊ぼう」には、自然が大きく命をあわせている中で本能のままに無限のものを捉えようとする気持ちを同時に感じきっているのである。

子どもにとっての自然とは、無限の感覚の中で意味のあるなしに関わらず本能の赴くままに遊んでみたいと思っているようなものである。

理由や理屈などはなく、ただただこの自然の姿を心で捉えている感性が生きているのである。

この命が響き合う世界で、本能のままに遊びこむことで自らに気づくことを呼び込もうとしているのである。気づくのは、無の中にある何かに本能は気づいているからである。

この「遊ぼう」と素直に思える心は、子ども心のことである。

本能が遊ぼうとするその答えを直観と真心で受け取っているのである。

次第に大人になるとそうではなく、遊ぶことまでも考えなければできなくなったり、遊ぶことにまでいちいち意味を持たせようとして意識の中でやっていることが遊ぶことだと勘違いしていたりする。

子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに自然を感じているから自然に「遊ぼう」と純粋な心で本能の言霊を発しているのである。

これを子ども心の七つ目として書いておきたい。

子ども心6

子ども心の六つ目には、「ありがとう」と素直に感謝できる心がある。

子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観て感謝の心を持っている。

例えば、何もなくても突然抱き着いてきたり、身近なものを宝物のように大切にしたり、咄嗟に言ってきたり、意味もなく何かをしてくれたりする。

そしてこの「ありがとう」には、自然が大きく命をあわせている中でお互いの存在そのものが奇跡のようだという気持ちを同時に感じきっているのである。

子どもにとっての自然とは、当たり前ではないことに感謝することを当然とするようなものなのである。

理由や理屈などはなく、ただただこの自然の姿を心で捉えている感性が生きているのである。

この命が響き合う世界に、御互いが存在していることが如何にもったいないことであるか、その御蔭で自分が幸せであることがどれだけ当たり前ではない有難い奇蹟そのものであるかを感じ切っているのである。

この「ありがとう」と素直に思える心は、子ども心のことである。

何かをされるや何かをするからではなく、存在させてくださっている周囲や偉大な何かに感謝そのものの存在を真心で受け取っているのである。

次第に大人になるとそうではなく自分都合の損得勘定で何かをしてくれるかそうではないかで感謝するかどうかを決めてしまったり、当たり前のことに不満を感じて足ることを知らない気持ちになってしまっていたりする。

子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに自然を感じているから自然に「ありがとう」と純粋な心で感謝の言霊を発しているのである。

これを子ども心の六つ目として書いておきたい。

子ども心5

子ども心の五つ目には、「やってみよう」と素直に新しいものにチャレンジできる心がある。

子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観て成長の心を持っている。

例えば、どうしても湧き上がる好奇心が抑えられず夢中になってしまったり、怖いもの知らずに飛び込んだり、自分のことを忘れてしまうほどにそのものと一体になっていたりする。

そしてこの「やってみよう」には、自然が大きく命をあわせている中で共に成長していこうとする気持ちを同時に感じきっているのである。

子どもにとっての自然とは、共生していく中で元気よく成長していこうとするようなものなのである。

理由や理屈などはなく、ただただこの自然の姿を心で捉えている感性が生きているのである。

この命が響き合う世界に、自分らしく生きることをそれぞれが真摯に取り組んでいる中で自分も成長していこう、新しいことをどんどん「やってみよう」と共に生きながらいつも夢中でいられるのである。

この「やってみよう」と素直に思える心は、子ども心のことである。

共に生き、共に成長しあえる関係の中で次々と困難を乗り越えあいながら切磋琢磨していく中で貢献しあえている幸せを真心で受け取っているのである。

次第に大人になるとそうではなくリスクを取ることを恐れ、挑戦することを諦め、無難にこなそうとして受身になり日々に流されていくうちに生気がなくなって元気のない人たちになっている。

子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに自然を感じているから自然に「やってみよう」と純粋な心で成長の言霊を発しているのである。

これを子ども心の五つ目として書いておきたい。

子ども心4

子ども心の四つ目には、「いいよ」と素直に許すことのできる心がある。

子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観て寛容の心を持っている。

例えば、ケンカをしてもすぐ仲直りし、感情的になったとしてもすぐにケロッと忘れ、謝るとすぐに許してくれ、どうしても仕方がなかったことをそのままに受け容れてくれる。

そしてこの「いいよ」には、自然が大きく命をあわせていることに偉大な寛容の気持ちを同時に感じきっているのである。

子どもにとっての自然とは、色々なことを素直に受け容れる偉大な器のようなものなのである。

理由や理屈などはなく、ただただこの自然の姿を心で捉えている感性が生きているのである。

この命が響き合う世界に、大調和を実感し、様々なものがそれぞれに重なりあって形になっていくその姿そのものに御互いを許し合うことを感じているのである。

この「いいよ」と素直に思える心は、子ども心のことである。

御互いが受け容れ合い、御互いが支え合う、そして気にしないで互いに一生懸命に生きることを許し合えることを真心で受け取っているのである。

次第に大人になるとそうではなく昔の出来事をいつまでも忘れなかったり、感情に支配されたりして誰かのことをいつまでも許すことができないようになってくる。

子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに自然を感じているから自然に「いいよ」と純粋な心で寛容の言霊を発しているのである。

これを子ども心の四つ目として書いておきたい。

子ども心3

子ども心の三つ目には、「にこにこ」と素直に笑う楽しい心がある。

子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観ては楽しい心を持っている。

例えば、湧き出る泉のように、嬉しいことを思い出したり、急にこれから先のことがワクワクしてきたり、優しい眼差しに幸せを感じたり、何もないことの中に何かがあることを知っているかのように感じる心が顕われてくることに「にこにこ」した心が出ているのである。

そしてこの「にこにこ」には、自然を信じることの楽しさ、その中に存在する自分の嬉しい気持ちを同時に感じきっているのである。

子どもにとっての自然を信じるとは、いつも自分のことを見守ってくれている存在に観えているのである。

理由や理屈などはなく、ただただこの自然を信じる楽しさを心で味わうことができるのである。

この信じ合う世界に、生きている歓びを実感し、楽しいという気持ちが命の泉が湧き出すように滾々と表に笑顔として顕われているのである。

この「にこにこ」と素直に思える心は、子ども心のことである。

常に自然の中に信じ合っているものたちがいて、その繋がりの嬉しさと命の織り成す永遠の繰り返しを真心で受け取っているのである。

次第に大人になるとそうではなく信じる事を怖がるようになり、不信と不安で過去も未来もいっぱいにし、信じ合っている今のことを喜べることもできなくなってくる。そして笑顔がでなくなっていくものである。

子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに自然を感じているから自然に「にこにこ」と純粋な心で楽しい笑顔の言霊を発しているのである。

これを子ども心の三つ目として書いておきたい。

子ども心2

子ども心の二つ目には、「わぁすごい」と素直に感動と感激できる驚きの心がある。

子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観て尊敬の心を持っている。

例えば、雲が大きかったり、海が広大であったり、風が吹き抜けたり、太陽が眩しかったり、森が豊かであったり、空が綺麗であったりすれば、子どもはそのままに「わぁすごい」と驚きの声を感じたままに感動を顕してくる。

そしてこの「わぁすごい」には、自然が大きく命をあわせて躍動させていることに偉大な敬意の気持ちを同時に感じきっているのである。

子どもにとっての自然とは、父母のようにとても優しくて大きな存在に観えているのである。

理由や理屈などはなく、ただただこの自然の姿を心で捉えている感性が生きているのである。

この命が響き合う世界に、大調和を実感し、様々なものがそれぞれに重なりあって形になっていくその姿そのものに感動と感激の驚きを感じているのである。

この「わぁすごい」と素直に思える心は、子ども心のことである。

これはセンスオブワンダーともいわれるものであり、常に自然の中に命の織り成す奇蹟や不思議さを微細に感じることができる生命への尊厳と尊敬の姿を真心で受け取っているのである。

次第に大人になるとそうではなく自分の価値観で思い込んだ個体としての姿や分別された切り取られた限界のある知識で自然の驚きを次第に感じられなくなっていき、眼の前で起きている自然界の偉大な命の奇蹟すらも感じられなくなってしまうものでもある。

子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに自然を感じているから自然に「わぁすごい」と純粋な心で尊敬の言霊を発しているのである。

これを子ども心の二つ目として書いておきたい。

子ども心1

子ども心の一つ目には、「可哀そう」と素直に思える優しい心がある。

子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観て慈愛の心を持っている。

例えば、虫や動物、身近な生き物や人々に対して自分のことのように感じることができ、痛いことや辛いこと、厳しい自然の中で放っておけないと思いやる気持ちがある。この可哀そうという一連の流れの中で、感情的に理不尽なことに対しても素のままの正直な「なぜ、どうして?」と自然と照らした眼差しからの疑問を覚えてくる。

そしてこの可哀そうには、その人の子ども心に共感して命が輝けないことに対して可哀そうだと同時に感じきっているのである。

子どもにとっての世界とは、この世を丸ごと信じきっている世界でありその中で起きることはすべて正しいと思っているのである。

理由や理屈などはなく、今に生きている自分のことに心から感じ入っているその真心がそのままに存在しているからでもある。

自分の身体や自分の心、この世に観得る世界のすべてを命あるものとして捉えている。

この可哀そうだと素直に思える心は、子ども心のことである。

誰に対しても、どんなものに対しても子どもはいつも自分の心で共感し様々なことを感情で響き合わせて真の良心、その優しい心を発動している。

次第に大人になるとそうではなく自分の価値観で思い込んだ知識や先入観で可哀そうかそうではないかということを分別してしまうものでもある。

子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに感じているから自然に「可哀そう」と純粋に心で慈愛の言霊を発しているのである。

これを子ども心の最初の一つ目として書いておきたい。

評価しない善の心

傲慢や横柄などといったコミュニケーションをするのに必要な対人関係の基盤に謙虚な態度というものがある。

謙虚であるとは、自分を慎むことであると一般には言われているけれど言い換えればそれは心の態度として他人を蔑んでみないということである。

他人を蔑んでみる人の特徴は、自分が評価されているかどうか評価されたいと常に躍起になっている人のことである。

自分が評価され自分が周囲に認められたいと思えば思うほどに、自分を価値あるものにするために他を自分の評価基準の一つとして見下すようになっていく。

人から尊敬される仕事をしている人が自分を隠すために謙虚そうに振る舞ってみせていることがある。

例えば一見、へりくだったように自分を出さないように見せてみたり、自分からはガツガツしていなければ謙虚なのだと勘違いする人がいて、実際はその根底に自分が評価されたいという強烈な欲求が隠れているのだから当然その振る舞いは見た目よりも確実に傲慢に見えるものである。

よく人は、肩書やその他人の風評や風貌、その経歴などで判断し、そのことで扱い方を変えたり、関わり方を分けたりとされてしまうこともある。

そういうことから、自分が評価されていないと思い評価されているかどうかばかりを気にして生きれば次第に傲慢になり、結果的に心が捻くれてしまい素直になれないということにもなりかねない。

謙虚になるためにはまず傲慢にならないということを教わったことがあるけれど、傲慢の本質は自他の評価自体を気にしないということなのであると私は思う。

自分がどう他人に思われようが、自分の心に素直に生きることが謙虚であるのであろうとも思う。評価をする心そのものが自他を裁いていることになり、そういう心の姿勢が傲慢になるのである。

そうではなく、そのままの自分それは他人を意識している自分の感情の自分ではなく素直なままの善良な自分、あるがままの善心のままでいれば即ち慎んでいるということであると私は思う。

自分を慎むとは、いつもの平常心で誰に会おうが態度を変えずに接することができることである。

私自身、評価されたがっている人が苦手てどうしてもそういう人の傲慢さが目についてしまい気にしてしまい接しにくいことがある。これは私の中にもたくさんの傲慢さがあり、評価しようとしているところに未熟さがでているのである。

しかし決心している生き方としての自分自身は自分のあり方の方が大事なのだからこそ変わらずいつもの心でいるようにいることが子どもの心を守るためにも大切なことになる。

明日から夏休みに入る。

今回は、以上のことから子ども心についてまとめてみようと思う。

今の在り様を観て、子ども心でいつまでもいることが如何に大切なことか、その心を自分たち自身が見守り続けることがどれだけ素敵な思いやりあう豊かな社会を築くことができるのか。

これまで私が気づくところまでを明日からは少し書いてみたいと思います。