自然の浄化

一昨年前、私が生まれ育ってきた故郷の神社の裏に流れる小川が山崩れによって破壊された。

鉄砲水と土砂が、上流から下流まで流れてそれまでの水路には大きな石がたくさん転がり崩落した後がたくさん残った。

それまでにその神社裏には、杜がありたくさんの植生が存在し木々も樹齢が長いものが多かったけれどそれもまた土砂により折れたり流されたりして原型をとどめないほどに壊されていた。

最近の集中豪雨で、このように破壊されているところはたくさんあるだろう。

この2年間、この杜の破壊を観続けている中で気づいたことがある。

最初は、生まれ育ったころの様相がなくなり大変心を痛めていた。これを手作業で復活させたいと思っていたところ、公共工事が入りその場所を戻すという。

そのまま観察し続けているとダム工事をし、コンクリートで水路を舗装して壊れないように整備した。

元々あった形になるのではなく、人工的に造られ小川だけが残ることになった。

そしてまた訪れた時、2年間の観察の意味が自分に明確に降りてきた。

自然は破壊したのではなく、治したのであり、人間は治したのではなく、破壊をしたのだと。

それまでにあった元の水の冷涼で透明で繊細な流れはそこにはない、そしてたくさんの土の浄化力で癒された霊気もそこにない、様々な山の力や共生の香りが失われていた。

今ではそこは藻が流れ、水温は上がり、水の流れは不自然になり、今までにあった自然の様相はそこには失われていた。

自然のやっていることを人間の感情で判断するというのは、まったくの勘違いであり本来の自然から学び私たちは自然でいることのなかで豊かであるのだということを気づくのである。

つまり自然は常に自浄するのであり、破壊ではなくそれは治癒であるということなのである。

その治癒力に感謝し、その治癒力を活かすことが本来の自然でいることである。

それを破壊と勘違いがあることこそ人間の傲慢さであり、人間世界の感情に支配されている証拠なのである。

私はこれからも何が真実なのかを見極めていきたい。今回の一連のことは、身をもって教えて下さった啓示でなのである。

故郷の自然から学んだことを一生忘れはしない、これからは決して間違いをしないよう心の懐に刻み生きていこうと思います。