様々なことが起きる中で色々なことに出逢い、そして気づき、経験を通じて学び私たちは生活をしている。
昔起きたことは一つとして無駄だったことはなく、今を生き抜くために全部必要だったと思える中で存在している。これは私の時から始まったのではなく、先祖代々ずっと太古の祖先から今も脈々とをそれを受け継いでいるように思える。
つまりこの今があるのは、様々な経験の御蔭でありそれを見守って下さった周囲の恩徳によってできていると深く感じることができる。
私たちは、それぞれに自分の人生を自分で実感し、その中でどう生きるのかを自分自身と自問自答し最終的には丸ごと善になるように決めているといっても過言ではない。
それを社会の中の役割分担ともいっていい。
それなのに運命を勝手に実感し、周囲の状況や他人を見てはどうしようかと悩むのは人情や感情的なところでの話であって目先でそれを理解しているのだろうけれど、実際にはどのような環境や状況であっても相手がいるいないに関わらず最終的に自分の心は自分がどうするのかは丸ごと自分で決めているのである。
ただそうならないのは単に素直な心が出ていないからである。
自分がなぜこうしたいのか、自分がなぜこうなのか、そんなものは感情から離れた素直なままの心で観ればすべての出来事は自分から起点になっているのはよく分かる。
他人のせいにしたいのは受け容れたくない感情があるからであり、どこまでいっても自分で今を決めているのが人生なのである。
病気一つでも、医師が治せるのではなく自分が治すのであるし、人生でも誰かによって変わるのではなく、自分が変わるのである。
人生とはどこかで他人のせいにしてしまうのは、素直な気持ちにならないからである。素直な気持ちになれば、全部自分次第ということになり、間違っても自分を責めたり相手を責めたりという感情に支配されることはない。
全部必ず善くなると信じる心もまた素直なところから訪れるものである。
人生は色々なことがあるからこそ感謝でき、様々な出会いの御蔭を感じることで幸せを感じているのである。
子ども達には、周囲の見守りの中で自分の人生を無駄がないものだと信じられるような見守りの眼差しを大人の代表になった気持ちで実践していきたい。
お盆も近づき先祖のお墓の掃除をしているとどんな体験もすべては今の私たちが生きるためには丸ごと必要であったのだと静かに語りかけてくるもの。
自分にとっても同じく、子どもたちのための大切なお役目が具わっていることに丸ごと感謝し、人生の素晴らしさを素直な心で味わっていきたいと思います。