子ども心の一つ目には、「可哀そう」と素直に思える優しい心がある。
子どもは、自分の知識からではなく自然に命あるものを観て慈愛の心を持っている。
例えば、虫や動物、身近な生き物や人々に対して自分のことのように感じることができ、痛いことや辛いこと、厳しい自然の中で放っておけないと思いやる気持ちがある。この可哀そうという一連の流れの中で、感情的に理不尽なことに対しても素のままの正直な「なぜ、どうして?」と自然と照らした眼差しからの疑問を覚えてくる。
そしてこの可哀そうには、その人の子ども心に共感して命が輝けないことに対して可哀そうだと同時に感じきっているのである。
子どもにとっての世界とは、この世を丸ごと信じきっている世界でありその中で起きることはすべて正しいと思っているのである。
理由や理屈などはなく、今に生きている自分のことに心から感じ入っているその真心がそのままに存在しているからでもある。
自分の身体や自分の心、この世に観得る世界のすべてを命あるものとして捉えている。
この可哀そうだと素直に思える心は、子ども心のことである。
誰に対しても、どんなものに対しても子どもはいつも自分の心で共感し様々なことを感情で響き合わせて真の良心、その優しい心を発動している。
次第に大人になるとそうではなく自分の価値観で思い込んだ知識や先入観で可哀そうかそうではないかということを分別してしまうものでもある。
子どもはそうではなく、自分の心の一部としてあるがままに感じているから自然に「可哀そう」と純粋に心で慈愛の言霊を発しているのである。
これを子ども心の最初の一つ目として書いておきたい。