原発事故から半年ほどが過ぎ、日常の中に爪痕を遺した放射能の問題も次第に人々の意識から遠ざかり色あせているようにも思う。
目には見えないものを人間は通常あまり意識することはない。
また長い時間不安のままでいるということは精神力が必要になり、楽に生きたいと思うほどに現実を直視せず逃避してしまおうとするのは本能でもあり仕方がないようにも思う。
私たちの身近で起きているおかしなことや危険なこととは、一見するとすべてそのほとんどが目には見えないものである。ある時を境に事故が起きてからそれが目にはっきり映り衝撃を受けるものだ。
世界ではそうやって、隠し通してきたもの見ないようにしてきたものが臨界点を超えて事故となり顕われ、そしてそのうち気にならなくなっていくものである。
これは自然界が不思議なバランスの中で存在している中で今まで生きてきた私たちの処世術であったのかもしれない、それはめまぐるしい自然の変化の偏りの中で如何に順応し如何に適応していくかということが進化と成長の歴史であったからでもある。
しかしそれがもしも人為的な事故であるなら、人として学ぶ必要がある。
精進するのが人の道であるから当然のことである。
同じ失敗を繰り返すのは、先人たちが私たちの子孫のために体験して示してくださった価値を我々が受け取らないことになるからである。生きた価値の上に私たちの価値が上乗せされるのが文明だとしたら、私たちは真に学んでいるかと省みる必要がある。
日常に戻れば、どうにもならないことをどうにかしようとするのはできない、今さら事故前に戻ることなどもできはしないしなかったことにすることもできない。
しかし、どうにかできることをいつまでもどうにもしないというのは人間としての謙虚に素直に学んでいく実践を怠ってはいないだろうか。
日々の生活を見直すことは、あのような悲惨な事故を忘れないためでもある。
「罪を憎んで人を憎まず」、それをした人間がどうかをいつまでも責任転嫁して議論するのではなく、時間を惜しんでそういう事故をあってはらないことだと深く反省し人を責めずに協力して改善するのが人の道なのである。
そして「禍転じて福となし」とあるように、犠牲の上にある今に感謝を忘れず事故を必ず善いことにするという気持ちで真摯に日々の脚下の実践につなげていくことであろうとも思う。
子どもたちのことを思えば放射能の影響のことは胸が苦しくなる、しかし諦めてばかりいられずまず自分ができることからやっていくのが誠実な反省にもなる。
常に自らの襟を正しながら、学び成長し、環境を改善していこうと思います。