生活が都会的になり、自然にあわせないで生きていると身近なことは人間の都合で何とかなるように勘違いしてしまうことがある。
洗濯物が乾かなければコインランドリーや乾燥機付き洗濯機を使い、食材がなければコンビニか外食で済ますなどと選択肢はすぐに人間にとって便利な方を選択する。
これが自然の中でとなれば、そうはいかず工夫と知恵を働かせて日頃から自然がどのような移り変わりがありそれをどう受け容れ活かすかということを考えるものである。
今では旅の仕方も変わってきていて、雨が降ろうが雷が鳴ろうが交通機関は動いているので当然自分も動くことになる。
今の時代、雨が酷いので行きませんや雷が鳴っているのでお休みしますとはとてもいえるようなことはない。
しかし昔なら、雨が降れば雨宿り、雷が鳴れば外に出ないという風に自然の中で無理をせず自分たちから寄り添っていたのではないか。
動植物も、雨が降れば雨の時にしかできないことをし、晴れになれば晴れの時にしかできないことをする、風に吹かれて自然と共生することを知っている。
自然を征服するということを最良としている文化もあるけれど、その不自然さゆえに無理をして苦しむ人が増えたというのは不便極まりないものであるとよく実感するものだ。人間は自分たちで苦の種を蒔いて、その苦によってさらなる矛盾を生み出そうとする。
本来の人間の成熟さとは、科学も技術も精神もすべて自然から学び共生のバランスに寄り添いシンプルに生きていくことを極めることで刷新していくことで得られるのだろうと思う。
自然を相手に人間ではどうにもならないということを知ることは、足るを知ることになっていく。勘違いから抜け出すためにも自分の都合ではどうしようもできないとすべてを一度受け容れるということはとても大切なことである。
その中で、今は十分ではないか、実はこれが自分の分度に適っているのではないかと考えることで人間は矢印がはじめて自分に向くのである。
自然から学び、自然とともに生きていくというのは、自分の無力さを知るとともに足るものを知ることができるということでもある。
これからエネルギーでもなんでも何を見直すことなのか、何を学び直すのか、自分たちの立ち位置を如何に原点から考えるのか、これからが私たちの時代の本当の進化の臨界点に入る。
日々にすべての自然から学び直していきたいと思います。