先日、ある山の奥にある蕎麦屋で下記のようなことが書かれた文章を頂いた。
書き出してみると
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つらいことが多いのは感謝することを知らないから。
心配することが多いのは今を一生懸命生きていないから。
行きずまることが自分が裸になれないから。
苦しいことが多いのは自分に甘えがあるから。
悲しいことが多いのは自分のことしかわからないから。
・・・
と書かれている。
そこの亭主の文章か誰のものかもまったく聞かされなかったけれど、これも自分と向き合うための智慧が入っているようにも思い何かと環境に挫けず工夫をしている亭主の気持ちになってなぜかより一層おいしく味わうことができた。
人間は誰しも本当の意味で自分に矢印を向けないと変わることはできはしない。
如何に反省した気に本人がなっても、真の意味で自分が間違っていることに気づかなければ何も変わりはせず、どこかで誰かのせいや他のせい、環境のせいにしている人はどんなに最高の恵まれた環境でもその人は自己改革することは難しいということを示しているのでもある。
例えば、上記の文章を解釈すれば私ならこう書く。
感謝をできない人は満足することもなくいつも何か足りないと思うから辛くなっている。そして心配ばかりする人は先や後のことばかりを不安に思い悩んでいるだけだから今に真剣になれないでいる。次に、行きずまる人は歪んだプライドがあり頑固だから人の話を聴こうとしないから孤立している。そして苦しいことが多いというのは、もともと誰かに依存する気持ちがあるから自分が納得いかず常に迷うことになり苦しんでいる。最後は、悲しいことが多いのは自分以外の人たちもみんな自分と同じように大変なのだと共感することが出来ないから被害妄想になり自分の感情から抜け出せないでいる。
このように人は結局、素直にならないまま生きようとすればいつまでも自分の狭い世界に引き籠り、他人のせいにしながら自分のことばかりを考えるようになるものだ。
自立するというのは、自分が与えられている環境を疑わないことでもある。
如何に自分が生きているこの場所、この今が、最善で最良のものかを深く味わい感謝をすればそれを生み出してくださっている周囲やその人は自分の恩人であるはずだ。
今の自分があるのは誰の御蔭か、それはすべての恩人御蔭である。そしてそこから今というものを丸ごと受け容れ、より正直に生きていこうと歩んでいくことするのが豊かな人生の姿勢であるのだと思う。
人はどんな境遇であったにせよ、その時々の自分自身の心がそのすべてを決めている。
いつも自分がなにものかによって見守られていると深く感じる人は感謝と御蔭様の心で謙虚に素直な自分を受け容れ、正しく向き合っていくことができるものである。
世間には、卑屈になりいつまでも素直にならない人たちもいると思えば本当に素直な素敵な人たちもいる。
まったく変わらない同じ人間なのに心が異なるだけで本当に不思議なものだ。
歳を経て、時折学び直しの必要な時期がある、それは節目と呼べるもの。
その節目にまで自分自身の弱さも自分自身のあるがままも受け容れずなぜなぜと感情ばかりをぶつけて欲望に飲まれている人たちもいる。天から与えらたチャンスをどう生かすかは、自分を信じるかどうかによる。
有難いことに人は素直な人に触れれば素直になるものであり、素直になりたいと思っていれば次第に素直になれるものであると信じる事だと私は思う。
余力を残したまま変わることは人はできない、余力もないほどのシンプルな本気の人生、澄んだ清らかな真心の人生を歩むと決めたところからが本当のはじまりなのだと私は思います。
これからもご縁を大事に学びがある日々に感謝とともに生きていこうと思います。