万物一体の自然心

人は自分の本当の心がどういうものなのかということに気づいている人はとても少ない。

自分自身とは一体どのようなものかの自覚は、常に何かを分けたところや部分で切り取られたところで理解していてその最初の心の状態、生死を超えたところにあるものものが元々どういうものかということをいつまでも理解できないでもいる。

大人になる過程で様々な日々に流され生きていく中で自分を欺いていれば元々あったものも正しく観えなくなっていくのは仕方がないことである。

それはまるで自然というものを、街中の街路樹や室内にある観葉植物、その他、山や川などといった万物一体とは分けたところで認識しだすようになることと似ている。

頭で分かることと、心で感じることはまったく異質なものであり、元々、一物全体で一つであったものがそうではなくなっていくということになるのも人間が常に自分を欺き続けていくからでもある。

例えば、自分の心の感覚で物事をそのままあるがままに溶け込むとき自然というものが何かというものを心が認識することができる。心は、相対的なところではなく絶対的な場所、つまりは心と自然と一体になるところですべてを感じているのである。

しかしそういうものを感じるためには、頭で考えた分かった気になったものが邪魔をすれば自然の心や根源的な透明な感性が正しく顕われることもない。自我という自分の都合で物事を判断し、その心が自然から離れているのならばそれは自我によって世界を歪めて観ているのであり真の姿は分からなくなっているのであると私は思う。

中江藤樹の遺した手紙の一文に下記がある。

「総而心の病は自欺に起り、自欺くは独を慎まざる故なり。自反にて浮躁の心気をしずめ、愛敬中和の独をよく見付て慎みはなれざるように工夫仕候えば、何の病もおのずから治するものにて候」

意訳になるけれど、「すべての病は自分を偽り欺くことで起こり、それはなぜ起きるかといえば真我の心のままに素直でいないからである。常に自ら省み、様々な欲の気を静め、穏やかな姿、落ち着いた安らかなる態度、そういう平和な状態で心を自然と一体になるように満ちているように創意工夫する精進をしていけば自然にどんな病も治癒するものなのである。」と私は解釈している。

自らの心を省みるということがそこが起点、万物の根本、根源、すべては元からということであり、常に自分自身にこそに問題があるとしそれを自ら正すということからやるのだということであると思う。

そして具体的な藤樹書院でのこの心の実践に、五事を正すというものがある。
それは書経にある「貌、言、視、聴、思」のことである。

貌は、柔らかく和やかな顔。
言は、温かく思いやりのあることば。
視は、澄んだ優しい眼ざし。
聴は、心をかたむけてきく。
思は、慈しみ思いやる心。

塾生は藤樹先生と一緒に自分のこの姿がどうかを常に自らを慎むことで明徳が曇らないようにと心を欺かない実践を通して良知というものを学んでいたのである。

自反慎独とは、自らの心との内省と対話であり、自らの心が如何に自然の心、思いやりの心、真心から離れないようにと日々を省みる実践を聖賢は皆、日々に取り組んできたということを仰っているのである。

私たちは如何に心許無い悍ましい日々を送るのか、様々な諸事と目先の損得、自我欲に負けるのは私たちが自然から離れたからである。

今、生き方というものを観直す大切な時期に入っている。
偉大な先人の思遣りの遺訓と恩寵に深く感謝しています。

子ども達にも自然の真心そのものがそのままに譲っていけるように、自分の良知をこれからも心して学んでいこうと思います。

我執の魔障

心を学ぶということは、心を磨くことで自らの生き様を変えるということである。

これは過去の聖賢の人たちの軌跡を学び、その人たちと同じような心のままで自分もあるかを観照しつつ内省し、新たな日々を正していくことで心の曇りを取り除いていくことであると私は思う。

なぜ日々に新たに学ぶかと言えば自分の生き方が本来の天命に叶っているか自然から離れてしまって歪んでいないかということを常に流されないように確かめるためでもある。

生き方を問うとき、それは心を問うことになる。

その心を問うときに、素直に生き方を変えることができる人と頑固にいつまでも自分を変えようとしない人がいる。

それは最初の問いの境目に、欲か心かのところですでに正否が決まっているのである。

それは生き方というものが何かを考えるとき、その人が何を優先しているかということを問い、その人が何を最も大切にしているかということを確認することが人生なのだとも思う。

日々に素直な人はすぐに根本まで辿り着き、答えが顕われる。
しかし日々に歪んでいる人は自我欲が邪魔をして、自分都合の歪んだ答えが顕われる。

この自我欲とは、私心のことであり、常に出来事を自分の方へと向ける心、自分の事の方が大事だと思っている心、いつも自分中心に物事を裁いている我執のことである。

我執の強い人はいつも人生がうまくいくことはない、つまり心が素直にならないから豊かではなく貧しいのである。その貧しさゆえに、様々なことがおかしくなっている、例えば人の話を素直に聴くことができなかったり、人間関係でいつも失敗したり、金銭トラブルを抱えたり、今が幸せだと思えることがなかったりする。

それは自分の中に棲みついている我執がいつも邪魔をして、何か自分が責められるのではないかと不安と恐怖で防御してしまいその魔障の壁が邪魔をするからいつも素直に正直な澄んだ心が出てくることがないのである。

心が出てこず魔が決めたことにしているのだから表面上となり、すぐにそれは裏目に出たりボロが出たりし憑りつかれたようにまた我執にしがみ付くという悪循環になるのである。

その生き方の悪循環から一向に抜け出そうとはしないことを頑固だともいう。

何が頑固かというと、いつも自分の方ばかりを守ろうとする人が頑固だといい、そういう人は自分で自他を責めることにより常に壁をつくりいつまでも自分を守ろうして凝り固まっている。

なぜいつも自他を責めるところから入るかといえば、自他から自分の身を守るため、自分を自分が責めることで防御し、自分が相手を責めることで防御することができるからでもある。

その防御壁という名の欲魔が障壁をいつもつくり邪魔をすることで、心を問う行為がいつも真心に到達できずにいるのである。

そして生き方とは、常に自分の心が決めることなのだから、そこが間違えてしまっては本当の自分の真心ではないのだから何をやってみても根本的には解決せず真に自分を変えることはできないのである。

自分を変えるということは、生き方としての在り方をどうありたいか、それはつまり本当に守りたいものは自分ではなく心の澄んだ自分の心で決めた何かであることになっていなければ変わることはできないのである。

だからこそその魔障を取り除くためにも正しい学問、日々の生活で慎み自分を格す必要ががあるのである。

自分が変わるというのは、自分の澄んだ心のままでいることは壁を自分から先に造らないことであり、誠の心を開いて素直に自分の間違いを正していこうと精進し、一番大切なもののために自分を使っていきたいという命の姿勢そのものの心の態度を変えることからはじめてできることなのであろうとも思う。

世の中には、おかしな教育を受けたり、幼い時に悲惨な思いをした人たちもたくさんいます。そういう環境にあったことを認め、哀れみの真心という慈悲愛心をもって、自他の境を超えていきたいものです。

万物一体の仁にはまだまだ道遠く感じますが、聖賢の方々の実践の気づきには学びに勇気づけられています。

致良知の実践、心を常に省み、一歩一歩を踏み締めながら誠を磨き、丁寧に過ごしていきたいと思います。

人間の方から

地球誕生から46億年と言われ、今まで様々な文明が生まれそしてまた滅んできたということは過去の歴史が証明してくれている。

その過去の歴史には、現代を凌ぐほどの自然科学が発達した時代もあったというように私たちは何度も何度もこの地球上で高度な文明を発達させてきたのであろうとも思う。

しかし、そのような高度な文明を築いたのにいつも歴史は繰り返され同じように滅んでいくというのはこれは果たしてどういうことであろうか。

それは一般的には何かのせい、つまり地球環境のせいや天変地異のせい、予期せぬ何かしらの出来事のせいにしてしまうけれど真実はきっとそうではない。

滅びるすべての問題は人間の方にあり、人間が持つ欲というものに負けただけということではないかと私は思う。

先日、女性環境保護活動家のワンガリマータイさんがお亡くなりになった。

持続可能な平和な社会の実現を目指して取り組み、来日の際に日本語の「MOTTAINAI」という言葉に感銘を覚え、世界に日本の文化を広げてくださった方でとても大きな功績を世界に遺された方だと私は思っている。

この持続可能というのは誤解があるけれど、地球環境のことではなくて今の私たちの人間文明が持続可能かどうかを語っているのであり、今の人間の生き方そのものが欲に負けてしまったらもう続かないぞと警鐘を鳴らしているのがこの活動の本質であると私は思っている。

世界では環境保護活動というものが誤解され、さも自分が地球や生命を守っているかのように語られ、環境に優しいだのエコなどとやっているけれど一向に進まないのはそれをエゴでやろうとしている人たちが多いからである。

本来、地球に守ってもらっているのはいつも人間の方で、決して地球は人間が守っているわけではない。

問題は地球環境の方ではなく人間の方であるのにいつまでも地球環境の方のせいにしてしまえるのは人間が自分の方が問題だと思わないほど傲慢になってしまったからである。

つまり欲に負けて傲慢になるから文明が持続可能にならない、何度も何度も文明が滅ぶというのは自分が次第に傲慢になっていることに気づかなくなるからである。

人間はちょっとうまくいくとすぐに傲慢になる生き物である。分かった気にさえなってしまえば、その瞬間にはもう欲に負けてしまうのである。

これはすべての経営にも通じることであり、社長が傲慢になるから会社は倒産し、個人でも自分が傲慢になっているから人生が破たんするのである。

そうならないためにも全ての問題は実は自分の方にある、人間の方にあるのだと自覚し、その問題だと思う矢印を自分に向けることこそが傲慢であったと反省し続けることである、そしてそれが持続可能な人間生活=平和な世界を維持することになるのである。

なぜ教育があるのか、何のためにあるのか、それは私は人間が傲慢になってしまわないようにするためであると思っている。それを傲慢にすることを助長するような教育者や教育が蔓延し広め続ければ現代の我々の文明は近い未来に必ず破たんし終焉を迎えることになる。

まだ間に合うはずであり、如何に自分たち人間の方から変わっていくかに気づくかが持続可能な社会を維持していく上で必要不可欠なのだと私は思います。

子ども達には、人間の大人の傲慢な姿ばかりを押し付けて恥ずかしい生き方を見せなくてもいいように正しい内省を実践し本来の自然、つまり「自分の方から」を示せるよう大切にしていきたい。

人間が問題を外に向けるときは、すべて傲慢になっているときである。

大変なことではありますが子孫のためにも問題は人間の方、そして自分の方なのだから、謙虚に素直に自然の生き方を学び取り入れ共存共栄の道から外れないように、かんながらの道の実践を優先し常に自分を変える方に力を入れていこうと思います。

文明の成熟さというのは、人々がみな譲り合い謙虚でいることだと思います。
そして私は日本人で生まれてきたことに誇りを使命を感じます。

人生のテーマが世界平和につながっていると信じて、また今も自分の方を観直していこうと思います。

本質的であれ

人は物事を正しく観るためには、何のためにということから入らないといけない。逆の言い方をすれば、どうしようかから入らないということである。

何かの物事を頼まれてすぐに反射的に動こうとするのは反応力を高めていけば行うことができる。しかし、本来のその頼まれたことの本質が一体何かが分かっていなければ正確に自分を役立て一体となって遂行していくことができなくなる。

だからこそ共に働く人は、「何のためですか?」が最初に聴けるようになるということが仕事を学ぶ最初に覚える必要がある習慣ではないかと思っている。

人はやっているうちに自分でも本当は何をしているのかわからなくなっていながらただ夢中に流されるように業務や作業に没頭してしまうことがある。目先のものに必死になれば、気が付くと周囲が見えなくなり心許無いことをやってしまっていたりし、それでは本末転倒になってしまう。

まず仕事は、今、自分がやっている仕事は何のためにあるのかを思い、それを相談や対話をしながら本質的な境地まで高め、それから取り組んでいくことがもっとも効果と効率が善くなるということになるのである。

今の社会では、現存する一斉画一の学校教育がそうであったようにわざとかなと思えるくらい「何のためですか?」や「なぜですか?」ということを聴かせないような風土があるようにも思う。時間がないのか、教えることが多いのか、もしくはあまり現実生活や社会と結びつかないからか、もしくは何か隠さなければならない不都合なことでもあるかのように、なぜかを聞いたら怒られるや、何のためかと尋ねれば疎まれる、めんどくさい人などと言われるという空気が環境があるという。

そして社会人になって同じくなぜかと他人に尋ねると早く君も大人になれと言われたりもする。この場合の大人になれとは、分からなくても動く人になりなさい、言う通りにしなさい、もしくは長い物には巻かれなさいというような感じにも受け取れるようなことを言う。

しかし正しく自分を活かしたいと思う正直な人は、自分の天命や天分を活かすために、本当の仕事、本物の業務、真実の作業をしようと思えばそれを確認せずに動くなどということはしないはずなのである。

そして私が言うなぜ本質的でないといけないかと言えばそれは何かを行うすべてに心を籠める必要があると思うからである。

心を籠めないものは、そもそも人がやることではない。
人が命を使い、何かをするというのはすべてに心を遣うことを言う。

機械のように、作業ばかりを正確にやれば優秀だと勘違いしている人がいるけれど人として人にしかできないものは何なのか、そしてそれは何のために創られた仕事なのかを思えば自ずと答えは分かるはずなのである。

人は人に貢献をすることで相互扶助し糧が得られるのである。

常に本質的であれとは、そういう意味がある。カグヤは理念の最初に掲げる以上、常に真心と誠の一字を主眼に置いて日々の実践を丁寧に取り組んでいきたい。

子ども心の声

心は頭で考えることと違い、本当に必要なものを自分に対して与えてくれるものである。

一見、自分にとって良くないと思える出来事であったり、自分にとっては考えていたら暗くなってしまうような事物であったとしても、それは実は心の中では欲しているものに繋がっているということがある。

それはまるで子どもが何かを欲しがることに似ているのである。
これは心はいつも正直ということなのである。

世間では人は大人になるというのは、心を我慢して抑えこむことを言うことが多く、自分の本心を抑えて理性的に振る舞うことで社会の中でやっていくことを大人になったと定義している。そしてそうやって周囲の大多数の年配者の人たちの都合の良い人になれば「よく大人になったな」などとと褒められることもある。

しかし本当にそれが「大人」というものだろうか。

人は、自分が本当に何を望んでいるのか、自分の命は何のためにあるのかと正対するのはすべてに心との対話により気づいていくことができる。

それは単に頭だけで割り切り考えることではなく、心があるがままを感じるように気づき、それに応じて従い深めて受け容れることで竟には、本来望んでいる自分の天命天分というものを知るに至るのであろうとも思う。

人は自分のことをよく分かっていないのである。

知識により分からなくなったといってよく、そのまま自然に生きてたら分かったものを先に知識を入れることで分からなくなってしまうのである。そういう刷り込みから解き放たれるためにも心と対話をしないといけないのである。

心の対話とはどのようにするものなのか、その一つに涙がある。
子どもがよく泣いているのも、心を我慢させていないからである。

人はいくつになっても自分の本当の心が嫌がっているなら、そのまま正直に涙が出るものである。

人は我慢して、頭で言い聞かせて説得を試みるけれど心がそれをやめてくださいと願っている場合は自然に涙が湧き出るものである。嫌なことを我慢して辛いことを無理しているとそのうち心が喪失して涙すら枯れてしまい無感動の人になってしまうものである。

それは何よりも最も悲しいことであり、自分の内面の子ども心が泣き疲れてしまっているのである。

日々に感動している人は、心のままに動いているのだからいつまでも心のあるがままで生きようとする。それは大人になるために頭で心を抑えこむのではなく、心が遣りたいと思っていることに向き合いそれを叶えてあげるために真の大人(たいじん)になるために学問をするのであろうとも思います。

人は誰にも自分の中に子どもがいます。
眼をキラキラさせて心が感動したままでいる子どもがいるのです。

もしもその子どもが泣いているのなら、その子どもの心に耳を傾けてあげることだと私は真摯に思います。様々な大人が我慢して刷り込みをつくり、その中で窮屈に自分の生を全うできなくなることほど不幸なことはないと思います。

自分らしく生きられる世の中、誰もが我慢せず助け合い心のままに共生し貢献しあえる世界を私たちは創れるはずなのです。

カグヤの理念は、私の信念は、子ども第一主義。

これからも子どものためにも、心の声を聴いていく日々を過ごしていこうと思います。

信じる力

人は信じるというのに、自分の中で善悪を決めたり好悪を決めたりとしその信じる力を幸不幸に分別し使っているといってもいい。

ある人は、将来の不安からこれから善くないことがあると信じ、またある人は、全ての物事には無駄がなく意味があるのだからこれで善いと信じるという。

どちらも信じる心の不思議な力を使っているのだけれど、前者は結局、自分を主軸に良いか悪いかのところで信じるようにしている。そして後者はそうではなく、禍福一円としすべては善いのだと絶対的なところで信じるようにしている。

もしも人生が、逆算だとして最期が分かっているとしたらすべての出来事はすべてに必要なことであったと気づき安心して自分の命の道を全うするはずである。

しかし現実は、目先の出来事に一喜一憂し近い将来のことばかりを悩みどうするものかと右往左往していたらいつまでたってもその不安は消えることはない。

別にそういう不安を考えなければいいというわけではなく、自分の人生をどこまで丸ごと肯定できるか、これは何かしらの意味があるとし、どれだけその出来事を深く掘り下げ、取り上げる質を高めるかという本質的にどうかということが必要なのであろうとも思う。

人生が一度きりだからこそ、日々の出来事ということも同じく二度と同じということはない。時間が過ぎる無常さがあるのだから、私たちはその変化の中で学び自ら練磨してそれぞれの役割を全うしていくのであろうとも思う。

最後に、この信じる力というのは良いか悪いかで使うこともできれば、絶体的な一つの処に置いて使うこともできる。一歩を踏み出し、一歩一歩進むというのは、後者の絶対的に善くなるのだという丸ごと善いことにしてしまおうとする真実の信に転じる力こそが大切なのであろうとも思います。

何のために学ぶのか、それは知識をつけて良否や善悪を決めるためではなく正しいことをするためなのだと思います。

子どもたちのためにも、大人のモデルとしてきっと善くなると必ず善いのだと丸ごと信じることを信じると定義していく実践を明るく広げていこうと思います。

日々学問

私たちの国の先人には、実践を学べる偉大な方々がたくさんいる。
私が尊敬する一人に、中江藤樹先生がいる。

今から約400年前に日本ではじめての私塾だといわれる「藤樹書院」をつくり、その弟子たちが実践することで徳風が広がり、そのずっとのちに松下村塾などをはじめ私塾というものの意義が各地へ広がったのではないかと私は感じている。

その藤樹先生の塾の学則は、冒頭に大学の明徳を明らかにすることを根本に据え、「天命を畏れ、徳性を尊ぶ」というような理念で日々の生活を通して学びを実施されていたということになっている。

この明徳というものは、人間誰にしろ備わっている心こそが自然あるがままの万物と一体になっている真の姿であり、この姿が明らかになることではじめて命そのものになるという意味になると私は解釈している。

そしてその明徳という自分に備わっている真心や命は、学問をすれば誰でも聖人になることができると言い切り、自らが致良知の実践を行って証明したのがこの中江藤樹先生であろうとも思う。

何かをやりたいのではなく、どうありたいかということを極め、その生き方そのもので聖人となることでその教えを広げるという考え方こそ、君子そのものではないかとその生前の姿に触れて感動することばかりである。

私が、現在学んでいく中でとても大事だと思っていることがある。

それは如何に日常というものが道場であるか、日々の自分の生活が実践の試練場であるか、そういう日々の中で自分の心と向き合い続けて理のままであるかどうかを確認することが道の上であるのだと思います。

最後に中江藤樹先生の明徳の詩を紹介します。

「天上心なくして 泰陽を生じ
 人間意あって 新正をよろこぶ
 人間天上 もと異なるなし
 日用の良知 これ至誠」

日々に自戒を持ち、天地自然の道理に従い生きていくこと、之即ち、真心であるという気がしています。

秋の澄んだ青空のように天晴な心で今日も生き切っていこうと思います。

忍とは認なり

「忍とは認なり」という言葉がある。

この忍=認というのは、心が正直に丸ごと全てのものを受け容れることを言うのではないかと私は思う。

認めるというのは、通常では何かその人の一部分、もしくは切り取られた範囲を見て、自分の中の分別された知や情で理解しようと誤解している人もいる。

例えば、誰かを好きになるや嫌いになるというものがある。

本来の好きであるとは、嫌いなところも気にならない程に相手を好きになる事であり、好きになろうと必死になることではなく、嫌いにならないようにと我慢することではない、それは好き嫌いを超えて相手のことを丸ごと受け容れるからそういう認める境地でいることができる。

親が子どもを思う心も同じく、どんなにその子が不肖であったとしても子は子なのだからと思う心は、天地自然と同じ仁の心、慈愛の心で見守っくださっていることと同様に全部受容しているのである。

それを今では、何か自分の都合の良いことをしてくれていれば好きでそうでなければ嫌いという風に、自分の思い次第で相手を受け容れようとしない人が増えている。

例えば親子間であっても、一生懸命に好かれようと努力したり、嫌われないようにとやっていくことばかりに躍起になり、そのことに疲れ開き直って親のことを敬わないように大人になれば、親子関係と同じく周囲との人間関係も自他を尊重することができず誰かを好きになるのも嫌いにならないのも表面上の条件付きでならなどという心の態度で関わっている人もいる。

真の慈愛を感じる心というのは、その人が自分に何かをしてくれたからや何かをしてくれているからという自分に対する損得ではなく、その存在を丸ごと認めているからはじめて実感することができるのである。

それは自分の心が先であり、やってもらって嬉しかったことや、してあげたいと思う人がいることではじめて自分の心に素直に向き合い真の実感を得ることができるのである。

その境地やその場所で心を澄ませて自分を観照すればこの自分を無償の愛で育てて見守ってくれている偉大なものを感じることができる、それは周囲の方々にはじまり、先祖代々の命の絆、天地自然の繋がりと恩恵、目にはみえないけれど永続してくれている万物根源のものに感謝できてはじめて自分が認めていると言えるのではないかと私は思います。

耐え忍ぶということも、そうやって自然の姿、あるがままの心を認めるためのプロセスの一つであり、それは我慢するのではなく無理に納得や説得させようとするのではなく、諦めるということ、受け容れるということ、つまり自分本来の根柢にある素直なあるがままの心の自分が自分であると認めることだと思います。

人は誰でも傷つけ傷つき合うものです、時折、様々な事件が重なり、そういう人たちが引き寄せ合い、余裕がなくなり忙しいことから心にもないことをしてしまったり言ってしまったりして傷つけ傷ついた自分があった人もたくさんいると思います。

人間は誰にだって聖人と同じような真心があるのだから自分をいつまでも責めようとする自分があるのは皆等しく同じであると思います、しかしそういう優しい心を持っている自分のことを思いやり受け容れるところからはじめていくことが忍と認であるのではないかと思います。

自分のことを認めることから、社業や実践、自分との正対を通じてこの心の霊妙な世界に触れつつ自然界の共生や尊重の意義を学び味わっていこうと思います。

リーダーの素質とは

天災や事故があると、今の時代はその国の理念がどういうもので何を優先しているかというのはよく分かる。

昨日、大型の台風が関東を通り抜けたためカグヤではクルーは午後にはすぐに業務を停止しみんな帰宅をした。

私も帰宅してテレビをつけてみると、ほとんどの企業がまだ業務を続けており駅は停止した電車で人が溢れ、無事に会社に戻ることもできないほとであった。

もしも働いている母親であれば、保育園には迎えにいけないし、大家族を養う父親であれば家族が気になるだろうし、幼い子ども達なら不安になるだろうと思う。自然の猛威や脅威を体験した私たちがそんな中で業務に支障がないようにとあるけれど、ほとんど支障をきたしているといってもいい。

また職業として救助などをしているところは仕方がないとしても、そんな天災の中でもよくやったと評価する企業まであるというのは、一体何を優先しているのかと思ってしまう。

先日の震災でも大地震後も通常通り働きそのまま仕事をしていた人たちが多く、結局、帰宅できずに人で溢れかえり全てがストップする悍ましい光景をみたからこそ、本当にこの国はおかしな国だと呆れたのを思い出している。

経済を優先する社会では、お金というものが最も重んじられ人命というものが軽んじられているようにも思う。

人はその理念を観て、その人物が何を優先するのかというのを判断基準に持っている。特にそれは有事にこそ出てくるものであり、それは会社ではどういうもの、家庭ではどういうもの、友人とではどういうもの、または逆境ではどうするか、選択基準はどうかなど、ヒトモノなどでも優先順位の決断にその理念が顕われているのである。

そして常日頃、何を大事にしているかというのはその人の人生観によるものでもある。

だからこそ私たちはどんな人物がその国のリーダーになるのか、その組織のリーダーになるのか、常にどのリーダーについていくかはそれを決める国民や組織人たちの一人一人の決断になるのであろうとも思う。

なぜ選挙が大切なのか、自分たちの大切な家族や自らの命を預けるリーダーを選ぶ必要があるからである。

今の時代は、そういうことをせずトップの理念を確認せずにただ勤め先として働いたり、ただその国民だからと流されるままに所属する人たちが増えている。そこから何かがあれば皆が責任転嫁するといった、非常に集団的無責任が起こりやすい状態になっているといってもいい。

しかしリーダーに命を預けても大丈夫かということはよくよく納得していないと安心して働けない、そして有事や事故、災害の時はそれが命取りになってしまうこともあるのである。

そして何かをリーダーのせいにするのもおかしな話で、そういうリーダーを育成しているのもまた自分自身なのである。だからこそ日頃の自分自身の取り組みこそが、真のリーダーを育成することになる。

その真のリーダーとは何か、それは自分自身こそなのであると私は思う。

孔子がドラッガーの遺した学問でリーダー道というもので学ぶのは、人間の自らの在り方そのものが真のリーダーを育成し、そして真のリーダーとは何かを自問できるものだからでもある。

常に日々は実践道場、リーダーの道もまた一朝一夕にはいかないからこそ学びの本質は日々の出来事を深く掘り下げ、道の真理を掴みとることにある。

真のリーダーとは何か、これからも深く丁寧に緊張感を持って内省を積み上げていきたい。

向き合う

人はどれだけ深く物事を掘り下げることができるかというのに、自分自身との正対というものがある。

自分の心に正直に、自分が一体何をしたいのか、自分とは何か、そしてその自分が参画している社会や組織に対して、本当はどうなのかということを考え抜き考え切るということは、相手の反応を見て右往左往するのではなく自分自身との向き合い方そのものが堀り下がっているということになる。

よく深い人や浅い人という言い方があるけれど、深い人とは常に自問自答をしながら悔いのなきような決断を連続して決定して納得いく人生を歩もうとしている人が多く、浅い人とはその場の雰囲気に流されたり気分次第で意見をコロコロ変えたり、つまりはいつまでも優柔不断に決断を避けるという言い訳や他人のせいにしいつまでも自分と向き合おうとしないで逃げる人であることが多い。

人生はそのまま何もしなくても日々に時間と同じく流されるものである、だからこそただ流されないようにどんな些細なことでも自分が決定していこう、納得していこうとする日々が真に充実している日々だということになる。

忙しいという業務のせいにして、考えないというのはそもそも考えたくないから忙しくしたいだけであることが多いのである。

つまりは向き合いたくない、不安だからこそあえて流されようとするのと、自分で決めて納得しているから流れようとするのでは、その人生をどれだけ自分のものになっているかどうかの差が出てしまうのである。

人生の幸福とは、自分の人生を自分で納得するように自分らしく生き切ることであると私は定義している。

向き合うということは、深掘ることであり、逃げないというのは、正直で素直でいることであり、正対しているということは、本質であるということである。

色々なことが起きると、考える時間がたくさんある。

浅く広く流されるのではなく、その一点その一心を深めていくことを大切にしていくことだと思います。