人は自分の本当の心がどういうものなのかということに気づいている人はとても少ない。
自分自身とは一体どのようなものかの自覚は、常に何かを分けたところや部分で切り取られたところで理解していてその最初の心の状態、生死を超えたところにあるものものが元々どういうものかということをいつまでも理解できないでもいる。
大人になる過程で様々な日々に流され生きていく中で自分を欺いていれば元々あったものも正しく観えなくなっていくのは仕方がないことである。
それはまるで自然というものを、街中の街路樹や室内にある観葉植物、その他、山や川などといった万物一体とは分けたところで認識しだすようになることと似ている。
頭で分かることと、心で感じることはまったく異質なものであり、元々、一物全体で一つであったものがそうではなくなっていくということになるのも人間が常に自分を欺き続けていくからでもある。
例えば、自分の心の感覚で物事をそのままあるがままに溶け込むとき自然というものが何かというものを心が認識することができる。心は、相対的なところではなく絶対的な場所、つまりは心と自然と一体になるところですべてを感じているのである。
しかしそういうものを感じるためには、頭で考えた分かった気になったものが邪魔をすれば自然の心や根源的な透明な感性が正しく顕われることもない。自我という自分の都合で物事を判断し、その心が自然から離れているのならばそれは自我によって世界を歪めて観ているのであり真の姿は分からなくなっているのであると私は思う。
中江藤樹の遺した手紙の一文に下記がある。
「総而心の病は自欺に起り、自欺くは独を慎まざる故なり。自反にて浮躁の心気をしずめ、愛敬中和の独をよく見付て慎みはなれざるように工夫仕候えば、何の病もおのずから治するものにて候」
意訳になるけれど、「すべての病は自分を偽り欺くことで起こり、それはなぜ起きるかといえば真我の心のままに素直でいないからである。常に自ら省み、様々な欲の気を静め、穏やかな姿、落ち着いた安らかなる態度、そういう平和な状態で心を自然と一体になるように満ちているように創意工夫する精進をしていけば自然にどんな病も治癒するものなのである。」と私は解釈している。
自らの心を省みるということがそこが起点、万物の根本、根源、すべては元からということであり、常に自分自身にこそに問題があるとしそれを自ら正すということからやるのだということであると思う。
そして具体的な藤樹書院でのこの心の実践に、五事を正すというものがある。
それは書経にある「貌、言、視、聴、思」のことである。
貌は、柔らかく和やかな顔。
言は、温かく思いやりのあることば。
視は、澄んだ優しい眼ざし。
聴は、心をかたむけてきく。
思は、慈しみ思いやる心。
塾生は藤樹先生と一緒に自分のこの姿がどうかを常に自らを慎むことで明徳が曇らないようにと心を欺かない実践を通して良知というものを学んでいたのである。
自反慎独とは、自らの心との内省と対話であり、自らの心が如何に自然の心、思いやりの心、真心から離れないようにと日々を省みる実践を聖賢は皆、日々に取り組んできたということを仰っているのである。
私たちは如何に心許無い悍ましい日々を送るのか、様々な諸事と目先の損得、自我欲に負けるのは私たちが自然から離れたからである。
今、生き方というものを観直す大切な時期に入っている。
偉大な先人の思遣りの遺訓と恩寵に深く感謝しています。
子ども達にも自然の真心そのものがそのままに譲っていけるように、自分の良知をこれからも心して学んでいこうと思います。