自然の生き方

古来より私たちは大自然の生命圏、地球号の中で様々な命と共生し、自分もその繋がりの一部としてのお役目の道に沿って歩んできたものであろうとも思う。

これは虫たちや動物たち、植物たちや目にも見えないような小さな生き物たちまですべてはそれぞれに与えられた宿命的とも言える命の道に由ってそれぞれの天命を全うしながら生活を営んできたのだと私は思う。

その生を全うするというのは、思い通りにはいかないことの連続をあるがままを受け容れ自分を認めてその命じるままに今を生き切っているものだ。

自然界は、日々の営みを丸ごと信じきっているかのようでもある。

しかし、今の人間の意識はすべての中心を自分にするという人間至上主義に陥り、自分の思い通りにいかないことをいつまでも受け容れようとはせず命の道に反する生き方が今まで循環してきた繋がりを断絶させ自分たちだけの都合に歪んだ不自然の世界に生きようとしている。

食の問題も、環境の問題も、経済の問題も、教育の問題も、その根本となるところで人間がこの世を支配しているという錯覚そのものがすべての問題を根底から歪めてしまっているということに気づきもしない。

いくら科学技術の力で誤魔化しても、いくら情報技術で偽ってみても、真理はいつも一つに存在しているものであり真実は隠すことはできないのである。自然の驚異を感じれば如何に自分たちが大きな思い違いをしているのかをすぐに理解することはできるはずである。

宇宙などすべてのものを繋がっている世界でモノゴトを観て感じていれば自然の中で活かされているのを知りそこには自分だけで生きているのではない常に満ちている命の世界の豊かさや安心を覚えるはずである。

自然の中での人間らしい生活というのは、すべての生死を受け容れる真心の境地で人間は人間らしく自然と一体になった中で自他を思いやり周囲と共生し貢献しあうことで営んでいくことである。

生き方としての今を見つめ見直し、全てを繋がりの中で丸ごと受け容れ自他の境を消し去って渾然一体の自然に生きることがかんながらの道の本質でもある。

よく目を凝らして曇ったメガネをはずして観れば、とても緩やかな悠久の時間の中で私たち以外に一生懸命に命の道を歩んでいる仲間たちと共に活きている。

その仲間たちはその命そのもののすべてを受け容れ、どのような環境下であったとしてもそれを丸ごと否定せず、あるべきあるがままに委ねて自らの役割を尽くし自然の中で穏やかに真摯に歩むことを続けている。

そういう自然の営みの中から様々な自分の間違いに気づくことこそ、人間本来の姿を思い出し、様々な歪みを解決するカギとなるのであると私は信じている。

根底に存在する命の道、その自然の生き方とは一体何なのか?

自然の生き方とは、万物は一体に繋がっているのだと悟る事であり様々な命のめぐり逢いを通じて絆を結びその歓びに在ることであると私は思う。

「この世の全ての持続可能な世界の本質は、悠久の流れとかんながらの道にあるのだ。」

人間の思い違いに刷り込まれて隠れてしまった永続する道を掘り起し、未来の子どもたちとの命の絆を守っていくために伝承しこれからも自然から学び新たな道を切り開いていきたい。

一体感とは

一人一人が自立するということは、一人一人が個別にそれぞれに自分のことをできるようになればいいということではない。単独で同じことを一人一人が自分でできることと皆と一緒にやっていくということはまったく意味が異なっている。

それは小さな組織を含め、自立とは社会の中ではじめて成り立つ行為だからである。集団がなければ、一人でできたとしてもそれは単に孤立であって真の意味での自立ではないからである。

音楽で例えればすぐに分かるけれど、一人一人がそれぞれに同じ歌を歌えるから大合唱ができるのではない。一人一人が皆と同じく一つのものに「合わせよう」や「調和しよう」といった意識が重なりあうことではじめて見事なハーモニーは創出されるものだからである。

それを自分が単にみんなとやることを同じくしていれば勝手に合わさるだろうと勘違いしている人がいるけれど、そうではない皆と自分の心底から素直に一つに意識をあわせて同じ理念の本、皆と一緒にやろうとする意識が何よりも大切なのである。

例えば、仕事では社長に確認をするというのがある。

これも、単に自分が進めている仕事を確認するだけなら合わせる必要はない。言えば済むし、メールでも済むし、そんなに難しいことではない。

しかし社長は理念やビジョン、方針を示すのだから、社長に確認をするというのは自分から理念に合わせようといった自分の内面的な意識が一つのものから外れないようにずれないようにとその総指揮者を透徹する感性で観つつ自らハーモニーを生み出そうという行為行動になるのである。

歌や音楽であれば同じく、自分が如何に全体に合わせるか、調和するように合唱しているか奏でているかというものを皆が「一体感」を持つとき、はじめて全体の音楽は美しく優雅に一つのことを顕すことができるのだ。

そしてそうしているとき、人は初めて自立していると言えるのである。

人は自分だけがまずできることを自立と思い込んだり、自分が皆と同じことが同じようにできればそれでうまくいくと思い違いをしているけれどそれは大きな勘違いで大切なのは意識の中で「皆と一緒に進めよう」と思えているかどうかがチームビルドの要諦であると私は確信している。

如何に皆が調和するか、それは一人一人の意識の中で皆と一緒に理念を実現しようといった自分から観て念じて感じて動くことなのである。木を見て森を観ずではないけれど、調和とは森のように自然に山となって偉大さを伝えるものと同じく一つの偉大な組織が調和するときにこそ神々しさを発揮するのである。

今の時代は欧米から輸入した間違った勘違いの個別教育により、自分さえできれば皆に迷惑をかけないと思い込んでいる人が多い。それは刷り込みで在り社会ではそうではなく、自分さえではなく皆と一緒にやっていくことや皆と共に生きていくことで迷惑をかけないようにしていくことが真の自立と共生であるのだ気づくことである。

まずは私自身、その勘違いを人々へ教え、如何に理念に合わせよう、皆と一緒にやっていくことの楽しさ、自律し貢献することの歓びを感じられるようにリーダーシップを発揮していこうと思います。

一体感とは、阿吽の呼吸にまで思いを重ね合い奏であうことであるのだと実践を示していこうと思います。カグヤは、まずそこから改善をし真の個とはどういうものかを示していこうと思います。

成長の糧

信じるということは、人との繫がりの中で生きていく上でとても大切なことである。

自信がある人というのは、他人の目を気にして自分を守ろうとする人ではなくいつも心が周囲に開いていて何かがあれば自分から貢献しようと生き方や姿勢が常にお役に立てるようにと働きかけているから社会の中で調和を生み出し居心地良い思いやりの関係を結んでいくことができる。

その逆に自信がなく臆病な人がいる、なぜ臆病になっているかというといつも自分が他人にいつか拒絶されるのではないかと他人を疑い無意識下に周囲を敵視しているからいつまでも心を開けず自分を守る事の方ばかりを気にするから他人の目が異常に気になってしまうのである。

臆病な人は、相手次第で信じていいものかといつも疑いから入る、そして自分が傷つかにように予防線を張り巡らし、自分なんてどうしようもないという自分を自分で責めることで人から責められないように先に防御する、そういう自分のことを信じない姿勢が他人に対する傲慢な姿勢になり他人から嫌われ敵視されてしまう根本原因になっていることにも本人が気づかないのである。

もしも人は自分の周りがすべて敵だとしたら誰だって臆病になるのであり、そうではなく自分の周りはすべて味方だとなったら安心できるのである。

誰かのせいにしたり、何かのせいにしたりできるのは、自分を信じることを自分から避けているからであり相手に求める方が解決できると勘違いしているからである。自分を信じてもらいたい、誰かに認めてもらいたい、分かってくれよといつまでも甘えて何か自分を守ってくれるものに寄りかかりたいという不安の顕われなのである。

どんな理由にせよ、今の自分が素直に正直に生きていくというのは何かのせいにではなく全ては自分が間違っているのではないかと自分に矢印を向けきれるかどうかである、矢印を向けた風で乗り切りその場しのぎで我慢するとどうせ噴出してしまいまた裏目に出てしまうのである。

本心から間違いましたと自分が受け容れたところで他人の話が素直に聴けてそれを正直に改善できることこそが実践を積むということである。

他人を信じる事は、自分から信じる事であり、他人を好きになるには自分を好きになることであり、他人を尊敬するためには自分が誇らしいと自分を尊敬することであり、自分の影響は他人の人生に大きな力を与えていると自分自身が自分を尊重し周囲に素直な心を開いていくことである。

今までの環境がどうであれ、これからの生き方は自分で決めるものだから信じるということの本当の意義を人間関係を通じて学んでいけばいいのである。

自らの間違いに気づける感性、素直に正直に自分から自分を変えていく勇気、自分を信じることで自信が積み上がっていくのであるから、思い切って怖がっているものから手を放してみることである。

成長の糧とは、まるで木々や植物が水をろ過し綺麗に澄んだ水をぐんぐん吸収していくようなものなのである。

それは素直に正直になることで、次第に心身共に澄んでいくのである。
これからも子ども心のままに成長を楽しんでいきたいと思います。

普遍的な観念

東西の垣根を超えてというのは大切なことである。

西洋から学ぶことや東洋から学ぶこと、東西には様々な文化もありそのどちらが優劣があるのではなくそのどちらの中にも共通する普遍的な観念が存在しているのである。

その共通するものとは、人間が今のように分別する前のものともいっていい。

そういう次元まで意識や見識が日々の観察や実践により本質が顕われれば、一円融合された調和の中で真相のモノゴトを自在に観ることができるようになる。

違いを分別するためのものから、共通するものを観るようになるには統一した視点で全体を一つとして正直に素直に感じることが理解できるようになることでもある。

これは自然理解も子ども理解も同じく、全体として統一されたものの理解とはつまりそういう普遍的な観念でいるということでもある。

今の世の中の環境問題も実際はすべて人間の問題であり、人間そのものの有様や生き方が皆の世界へ多大な影響を与えているのである。

分別した知で断片的に一部を切り取って最善だと言い切っていたとしても、そこには統一された自然の叡智があるわけではない。それは単に、そういうものであると相対的なところで部分を語っているに過ぎない。

これからは如何に調和の中で生み出された智慧が、東西を超えて世界で活かされるかと考えると私たち日本人の中に脈々と受け継がれてきたかんながらの道やその言霊の中にある生活の叡智が求められてくるのであろうと確信できる。

今のような不安を煽りたてるように仕掛けられている時代には、心の平安を生み出すような豊かで穏やかな思いやりのある普遍的な自然との共生の仕組みが正しく調和へと転換させてくれるのだろうとも思います。

昨日のセミナーでも、日本の3Mといった見守るや結び、もったいないというような言霊の中にある叡智が世界には求められていることを感じます。まだまだ思い出せないだけで沢山私たち日本人は役割を持っているのだと思います。

子どもたちに伝承していくためにももっと素直に深く学び、もっと澄んだ感性で気づき、正直に普遍的な観念を磨いていきたいと思います。

日本人としての役割を世界のために真に果たすことができるように、志高く胸に秘め日々の実践を徹底していきたいと思います。

正直と実践

人がモノゴトを相対的にどちらかが良くてどちらかが悪いというように考えるようになってしまうのは「頭」だけで考えようとするからである。

基本、頭の中は知識や価値観の色眼鏡でモノゴトを観ていて自分の解釈で様々なことを良いことや悪いことなどと思い込み日々そのモノゴトを自分都合で裁き続けている。

例えばこっちはダメでこっちは良いなどと正論や法則を語っても、実際は自分で行動してみると思っている通りにはならず頭で考えたことと現実とは異なっていたりすることが多い。

頭で考えているときは、どうしても自分なりの考えのみで判断してしまう。

しかしまずやってみて行動するとなると、考えている通りにはほとんどならず如何に自分が正直であるかや如何に自分が素直であるかが一瞬一瞬に問われ、竟には自然に言行一致の状態に近づいていく、それを実践という。

何かをやらない理由を持とうとすることも先に頭でいろいろと分かってしまうから計算してしまうのであり、いざ行動に移して実践したものは全てに心を遣い感じないとできないことだから次第に相対的ではなくモノゴトを中庸にしていくのであろうとも思う。

昨日も保育環境セミナーが開催され、情報交換会では各園での自園での実践発表や課題などを一人一人が語っているところを拝見していると正直に行うことの大切さを改めて認識することができる。

実践をしているということは、言い訳のために頭で考えなくてもできるということである。

そして実践をしているからそこではじめて理論が語れるのであり、実践をしない人が先回りするのは正直に向き合っていないか失敗を恐れてやりたくないから先に成功する法則を理解することに躍起になってしまうのでもある。

何でもやってみなければ分からないのであり、正直である人が最期は納得する自分なりの境地を切り開いていけるのである。世の中に善悪良否はなく、すべては自然のあるがままでいいのであると私は思う。

そして実践することは誰かのせいや何かのせいにすることはない。

正直な実践は常に自分と向き合いその矢印も自分に向いているのだから自分が間違っているのではないかという出発点でモノゴトを捉えることができているからモノゴトの本質や実相をそのままに感じて竟には悟ることができる。

まず自分のどこが間違っているのか、見落としている足元に気づこうとしてはじめて自然を捉えるような心が芽生え、自分自身を知ることができるのであろうとも思う。

どうしても問題や課題が外側にあると勘違いするのは欲望でありそこから相対的な目線に陥り、自分の歪んだ色眼鏡があること気づかず困惑し彷徨うことにもなる。

自分を知るということは、正直にいることであり、それは何が良いか悪いかと裁くよりも時間を懸けて自分が素直に行動して実践を積んでいくことはじめて観えていることになるのである。

自分に正直というのは何よりも私たちの生き方として大切な徳目であろうとも思う。

自分を偽ってはどうしても周りを巻き込んで偽や擬を積み上げて迷惑を巻き込んでしまうもの。だからこそ、自分自身は常に正直にあるがままの行動ができるように真心を優先して自分と向き合っていきたいと思う。

人間は誰もが本能的には自分のことしか考えられないのだから、真心の実践を積んでいくことで考えないようにしていくよう正直な心のままに日々の実践を楽しんでいきたいと思います。

一視同仁

モノゴトを平等に感じる力が備わってくると万物と一体になる感覚がある。

色々な違いがあろうが、それが一視同仁にすべてのものをあるがままに捉えていけば兼愛無私の気持ちが湧き上がってくる。

王道としての正しいことなどの法則と、人情としての様々な筋道などの心の機微の善悪などもまた同じく一つの思いやりであると私は思う。

天道地理義理人情すべてを感じて許していく優しい心が私たちの中には具わっている。

互いに違いがあるからこそ互いに人間としての真の素養や徳性も磨いていけるのだとも思う。

人はそれぞれに同情の中で感じると互いに仕方がないと思えるような許し合えることがたくさんある。

忙しくて余裕がなかったり、境遇が厳しくゆとりが持てなかったり、大変なことが続いたりと観ていて居た堪れなくなることも多々にある。変わってあげたいと思っていても本人のことだからそれが自分にできることは本当に少ない。

そういう時は心を籠めて思いやり、同じ情の中で無垢に共感することしかないこともありそこからまた真の祈りや信という行動に移していくことが真摯に生きるということになるのであろうとも思う。

素直な心になれば、全ての人からの話にはまったく否定するものはなく他の人の色々な方針の中から真心を感じられ、それをまた自分や誰かのために愛を籠めて謙虚にいただくことも一体感になる。

似た話で少しだけ逸れるかもしれないけれど、松下幸之助に下記がある。

『私は、会社の社長というものは大いに同情すべきものだ、と思うのです。みなさんが、会社の社長というものは大いに同情すべきものだ、ということがだんだんわかってくると、その会社は必ず栄えます。もしかりに従業員の方がたが、社長は遊んでいる、何もやっていない、あれはあんまり働いていないのだ、働くのはわれわれなのだ、というような考え方を持つようですと、私の体験から申しますと、その会社はあまり速やかな発展はしないように思うのです。これは国家についても同じことがいえます。過去の歴史をたどってみても、発展した国、発展している国の過程には、やはりそういうことがあります。いわゆる大将と申しますか、その指導者が尊敬されずに、敬遠される形において、その国なり、団体が発展した例はありません。それはまことに顕著な事実だと思います。ですから、みなさんはまず、社長というものがいかに忙しい仕事をし、いかに重大なものであるか、ということを知っていただきたい。社員学の第一歩は、私はそれから始まると思います。そういう社長の苦悩というと少し語弊がありますが、社長の立場に同情を持てる社員が何人いるか、ということによって、その会社がどの程度の強さであるか、ということが判定できると思うのです。」「社員稼業」より引用

一体感というのは、兼愛無私に相手のことを自分のことのように感じる事でありそういうところから素直な自分が寛容の気持ちで一つの思いに共感することができるのであろうとも思う。互いに互いの立場を慮り、寛容の心で許し合い認め合い助け合うことを優先することが思いやりになっていく。

私はまだまだすぐに余裕がなくなり何かがあると、すぐに偏り相対的なところでの認識から一視同仁の眼差しを見失って忘れてしまうことがあります。

相手は自分のことを真に思いやり愛してくださっていること、その真心で感情的にもなっていること、そういうあるがままのすべてのを天の声の一つとし、日々新たに気を引き締めて今日も一期一会の脚下の歩みを確かにしていきたいと思います。

瑞々しい素直な澄んだ心で、大空を仰ぎ見、蒼天の彼方にある星々とともに緩やかに穏やかに静かに光輝いた人生の道を深く楽しみたいと思います。

これからも優しく子どもたちに親しんでいくことを大切にしていこうと思います。

有難うございます。

自立の本質

自立するということの最も大きな壁に、怖がるということがある。

焦る気持ちから、何度練習してもまた試してみればみるほどに大きな壁が現れさらにまたできないという感情が自分にはできないと挑戦するよりも怖がることを優先するようになる。

怖がるという行為は、自分への甘え、自分への不信、自分への不誠実など今まで自分に対してやってきた責めや後悔などが積もったものが恐怖の気持ちを創りあげてきていたりする。

これは悪循環で、そもそも責めるのは逃げることになり甘えになっているということに本人自身が気づかないだけである。好循環を生むには、甘えを断ち切ることが攻めることになりそれがもっとも自立するには効果があるのである。

きっと誰もが見聞きしたことがある物語に「アルプスの少女ハイジ」がある。

この物語の最後の感動シーンの中で、クララという歩けない少女が立ち上がるシーンがある。このシーンは何度も放送されたりするから、見たことがあると思うけれどその中で自立ということの本質が描かれている。

ちょっとした事で何かに理由をつけて練習をやめようとする弱気なクララを見たハイジは泣きながら下記のようなことを言う。

「クララのバカっ! 何よ意気地なしっ! 一人で立てないのを足のせいにして、足はちゃんとなおってるわ、クララの甘えん坊! 恐がり! 意気地なし! どうしてできないのよ、そんな事じゃ一生立てないわ! それでもいいの? クララの意気地なし! あたしもう知らない! クララなんかもう知らない!」

そう叫んで駆け出したハイジを見て、クララはハイジを追いかけようと思わず立ってしまう。

誰かにいつも甘えて助けてもらおう、可哀そうだと同情してもらおう、できない自分をわかってもらおう、こんな自分だからと知ってもらおう、やってもこうなんだと伝えようなどといったクララが抱いていたすべての甘えを、純粋無垢なハイジが泣きながら駆け出したことで自分を信じきってくれている人を失いたくない一心で追いかけようとしたとき咄嗟に立ち上がることができたのであろうとも思う。

クララのように周囲は最初からその人が怖がらなければ自立できることを信じているけれど、本人が最期まで自分を信じようとせず自分ができない理由ばかりを周囲へ押し付けて自分から信じようとしないから甘えが出ていつまでも立てないのである。

自分でできる人が自分でやろうとしないのは、全てにおいて自分以外に甘えているからである。自分以外に甘えないと周囲を信頼するのをやめることは自立の勘違いでそれこそが甘えている証拠なのである。

甘えを断ち切るというのは、自分から信じることである。
自分から信じる事は、甘えないで自ら立つことである。

怖がらずに挑戦すること、自分から最期まで諦めず遣り切ること、人に心を開いて素直に確認したり頼れること、それは全てに自分を自分が信じることである。

信頼関係とは、自分を信じているから安心して頼ることができること、それができるかどうかはまず自分の姿勢が甘えを断ち切れるからできるのである。

誰だってみんな昔、色々と体験して傷ついたことがあるのだと思う。

例えば周囲から早く立て立てと焦らされて信じるよりもプレッシャーで期待に応えられずよりできないと思い込んで怖がっていることもあるのだと思う。

しかしその時のことに囚われ、周囲に矢印を向け続けるよりもなぜ自分に矢印が向かなかったか、それを反省することは大切な自分との正対になる。

その当時から周囲は自分をずっと信じてくれていたことに感謝し、恐怖を拭い去り自分が自分のあるがままを受け容れていつかは立てると信じていくこと、それを何度もやっていくのが自立の本質なのである。

人は何歳でも変わることができる、そしてそれは自分が決めることでできる。成長を見守り、本人がいつか自分で立てる日を待ち遠しく楽しみたい。

子どもたちの模範になるように、乗り越える力を実践していけるように挑戦をする心を育てていこうと思います。

成長とは

昨日、カグヤの役員で税理士の方の誕生日会を会社で行った。

毎月、カグヤでは誰かの誕生日をいつも祝っていてともにご縁あり一緒に働けるということは本当に幸せだと感じることばかりである。

私たちの会社では、誕生日の方に「ハッピーポートフォリオ」というものを作成し、その人の成長を皆のメッセージと共に本にしてプレゼントする。あわせて皆の手作りの料理やケーキで一緒にお祝いをするという具合に共に同じ時間を楽しんでいる。

人は自分だけではなく周囲も含め、生まれてきて善かった、生まれてきて有難うと思える実感から人生の意義深い妙味を感じることができる。もしも生まれてきていなかったらと思うと、すぐに出会えて本当に善かったと誰とでも思えることは人は繋がりの中にある喜怒哀楽の感情そのものも皆の人生の一部であることを実感できる。

繋がりから様々なことを感じ、味わい、気づいていく日々は感謝、感動、感激の毎日であるのだ。出会いの人生は本当に味わい深く、人は様々なことに出逢い成長していくのだと一期一会を確信できる。

さて、誕生日の感想を本人と話をしていたら「自分ではあまり変わっているかどうかが分からず出会ったから10年どれだけ成長したのだろうか?」と聴かれたので私はこう答えた。

「私は成長とは、人は何かを足していき何か凄いものになるという風に思っているのは勘違いで、成長の本質とは様々な刷り込みが取り除かれ歳相応に削り取って最終的には素のままの自分、つまりは自然体になっていくようになるものではないか」と思っていると。

それは自分がどこか無理をしてどこか本当の自分ではないと、そうなろうと自分がもがいていく。変に身に着けた過去の様々な教養や体験が邪魔をして消化不良を起こし、そのためにおかしな自分になってしまっていることにも気づかず葛藤を感じてもっと成長をしたいと望み生活をしている。

そういうものが学び直しや削り直しといった元に戻る生長により、歳相応に本来の自分を取り戻していき融通無碍の一体の境地に入っていくことが素直な自分、真に成長をした自分ということになる。

その年齢に必要な素直な学び、善い歳の取り方をしていくというのは生き方としての自分の心に素直に応じて従い自然体になっていくことをいうのではないかと私は思っている。

たった一度の人生、いつになっても善い歳の取り方をしていきたいものである。

子どもからの本当の自分をいつまでもあるがままに大事にしていきたい。

悉有仏性の学び

人生の上で、如何に素直にいるかというのは人間関係には絶対に必要なことであろうとも思う。素直でなければ、本質的に誰とも本当の信頼関係も共生関係も共同生活も築き上げることはできない。

よく愛されていないから自分は不幸せだといつも相手や誰かのせいにして被害妄想になっている人もいるけれど本当は人は愛しているから幸せなのである。自分が愛している人ほど人に愛され、愛しているからいつも幸せになるのである。愛されたいことばかりを願うからいつも愛されないと思っているのであり、それは足るを知る心がないから自分自身ががいつまでも不幸だと思い込んでいるだけなのである。

愛される人は、自分からいつも愛しているからいつもいつまでも幸せなのである。
同じく、素直な人は自分がいつも正直でいるからいつまでも成長し続けるのである。

そこが勘違いがある人は、矢印の方向が外側に向いていてどんな時もまず相手からだと相手に矢印を向けるから素直になったり正直にならなかったりと計算して使い分けようとする。

そして感情的になって相手が素直ではないからや相手が愛そうとしないからとどこかで責任を相手に転嫁して自分から素直に感謝することがいつまでもできない。

実際は自分には充分すぎるくらいどれだけ自分が今、愛されているか、今まで愛されてきたかなどを気づくことは最後までない。

だから本質的に感謝することができないのである。

感謝している人はそういう満たされた心があるから素直に自分から今までの自分の心の態度を見直し感謝にまで高まり信じることができるからいつも周囲に心を開いているのである。具体的には相手が不愉快になっていないか、心地よくないか、周囲全体に悪い影響を与えていないか、心を開いて受け容れる態度で配慮しながら素直に自分を謙虚に変えていくからいつも一緒にいて居心地がいいのである。

これが素直ではないと、怒りや不満の自分の感情の殻に閉じこもって相手がそこに反応するのを永遠に待とうとするのである。つまりまだまだ満たされないぞと矢印をいつもの外側の相手になるのである。

悲しいことにそんなことをしても、相手は充分すぎる愛と真心で接してくれているのだから気づかない自分が間違っていたと気づけるかどうかなのである。

受け容れるという行為は、相手によって決めるのではなく丸ごとの自分自身の姿を自分が素直に受け容れ認めるかということである。色々な自分があることを正直に認められる自分がいてはじめて素直になったといえるのである。

まだまだ人間の学びは深淵で、生きていると様々な葛藤を通してすべてのものに仏性が存在することを感じることができないでいる。自分の浅はかな知識や分別が邪魔をして目に映る表面上の観念に囚われているようにも思う。

これからも修行を積んで、自然のままを受け容れる観念を学んでいきたい。

色々な人たちとのご縁と御蔭で楽しい旅路を歩めています、有難い機会に感謝しています。

旧友へ

先日、久しぶりに昔一緒に働いていた社員から連絡があった。

今では個人で独立して仕事をしていること、以前と同じように営業を続けて人に喜んでもらえるようにと努力していること、いろいろと現状のことを報告してくれてとても嬉しくなった。

今でもその当時も私の至らなさや未熟さは変わらないけれど、今では考えられないようなマネージメントをしていた頃のことでもあったのであの頃は冷たいことをしたかもしれず申し訳なかったと素直に謝ると思ってもいない言葉をかけてもらった。

あの頃、厳しかった私の毎朝の気合いの篭った5分間朝礼や緊張感でピリピリするような熱い叱咤激励が今の自分をいつも支えていますと言われたのはびっくりしたものだった。あの当時の、情熱的な話に何度も魂が震えてそういう自分にいつかはなろうと今でも目標に頑張っていると言われたりもした。

あの当時から今でも一緒に働いているクルーによればあの頃の私がトラウマですとまで言われ、何だかとても申し訳ない気持ちになっているけれどそうではない場合もあるのだと思うと不思議な安堵感も次第に湧き上がってきた。

人は、自分にとって価値のある部分、本当に善い部分だけを抜き取り、それを学び自らが正しく成長していく糧にしていくものだと思うと、本当に無駄な出来事などは一つもなかったのだと有難いと思える気持ちになってくる。

人間は、すべてのことから何一つ過不足なく生きることを学びそれを自分にとって人生に必要な成長の材料にしていくことができている。

その当時の結果だけで、短絡的に自分都合の感情で善悪や良否を決めるのではなく、このことが必ずお互いの何かの成長の機会や無二の財産になるのだとすべての体験を丸ごと味わいそれを将来のために活かすことが私たちが精進する道の上の実践の心構えで在る必要がある。

今、どのように昔の体験が生きているか、決して停滞や不毛などではなくそれは必然的に御互いの成長に必要だった期間があるからこそ出会いがあったと感謝にまで昇華し思えることが世界を絶対肯定をして全てを丸ごと信じるという真心になっていくのであろうとも私は思う。

久々に連絡をくれた彼が今悩んでいることは、その当時の私もとても悩んでいたものと同じでもあった。人は皆、同じように悩み迷いそして発達して会得していくのだと思えばすべて心配ないと自信を持って彼を励ませる自分に何だか不思議な安心感を覚えるものだ。

人生は一期一会、今いる場所のすべてを丸ごと受け容れながらこれからもすくすくと素直に成長し社会貢献できる立派な人になってほしいと願います。

久しぶりに声を聴けてうれしくなりました、別れた人たちは皆今どうしているのでしょうか?きっと彼と同じように悩みながらもすくすくと自分らしく生きていることと思います。

これからもお互い自分の現場で試練を味わい自分の道を迷わず歩んでいきましょう。

ご縁あった皆さんの健やかな成長を、また一期一会を心から祈念しています。