自分という感覚に、感情の自分とそうではない本当の自分という感情を挟まない澄んだ自分というものがある。
古来の聖賢は皆、この一点を学び、自ら真心や至誠、明徳といった言葉に換えて自分というものと正対し、本来の姿とは何か、本当の事とは何かということを解釈し、天命を透徹させて生き切っていたのであろうとも思う。
感情の中の自分とは自分の利害を優先し心が曇っている状態であり、そういう色眼鏡で相手を見たり、本質を深掘ることをしなかったり、刷り込みにどっぷり浸かっていたり、自分中心の好悪で決め込んだり、上下の嫉妬や傲慢な慢心などにより、真に正しく素直に物事を観ることができなくなっている状態といってもいい。
そういう人は感情そのものと一体になることで周囲に変なオーラを放ち、同じように自分の禍々しい感情の闇渦の中にブラックホールのように周囲の生気を吸い込んでいくものである。
その自分自身を曇らせている原因に気づかず、根本的な解決をいつも誰かのせいや何かのせいにへと自分と向き合わず外側に求めようとすることがそもそもの完全な間違いの根源になっている。
まず自分自身の心がいつも思いやりで満ち謙虚で素直かどうか、そういうことを省み正していけば物事は自分だけの見方が如何に偏っているかに自然に気づくのである。
学問を正しくしていく中で、智慧を知り、心の在り様に気づくことができれば、次第に周囲を慮ることができるようになる。
きっと相手は自分よりも大変な思いをしているのであろうと思えたり、周囲は自分よりも自分のことをいつも思ってくださっているのだろうと感謝の心が芽生えたり、自分から謙虚にいつも自分の間違いを自ら正していこうという正直な気持ちが育ってくるのであろうと思う。
しかしそういうものは全てに、利よりも義を優先するかどうかによる。
人は自分の都合の良い解釈、自分の利害を何よりも優先するから常に間違いが起こる。そもそも何のためにやるのか、何のためにいるのかと本質から大義を思えば、そこに自ずから忠や礼といった自律・自戒の精神を磨こうとでき日々を勤めあげていくことができてくる。
特に仕事でいえば、一生働いていくのであるから自分がなぜ働くのかが間違えていれば定年退職する際に何を自分はやってきたのだと後悔するだけである。
人生でも仕事でも最期を思い逆算すれば、納得して生きることや働くことは自分の覚悟次第なのだと気づくのである。
迷うのは、自分が何かに囚われているからであり、覚めないのは論語にあるように意必固我に負けるからである。頭で考えてできることではなく、やはり大切なのは思いやりの永続なのであろうとつくづく実感する日々です。
最後に私が尊敬して仰ぐ一人、中江藤樹先生に下記がある。
「学問は、明徳を明らかにするのを主眼とする。明徳は、人間の根本であり、主人である。人間のもたらすすべての苦しみには、その明徳をくもらすところから起こり、世界中の戦争もまた、明徳をくもらすところから起こるのである。聖人は、これをあわれんで明徳を明らかにする教えを立てて、すべての人間に学問をすすめた。四書五経に書かれているおしえは、すべてこの一点にほかならない。」(翁問答より)
明徳とは、そういう心の曇りを取り除いた澄んだ真心でいることを言う。何のために学ぶのか、何のために生きるのか、何のための自分であるのか、そういうものを深めていきたい。
過ちだと気づいても過ちを正さないことが真の過ちであると孔子は言う。
日々は真我に目覚めるための実践道場、常に真心と思いやりで素直に取り組んでいこうと思います。
感謝