命の置所

言葉には言霊と言われるように一つひとつにそのものの定義というものがある。

その人の根本的な命の考え方とも言える、そのベースにある人生観ともいえるものがその人の言葉言霊に宿っている。

そもそも考えるという行為は、すべて自分の言葉を使って行うものであるからその人の考え方自体がその言葉の定義によって形成されているといってもいい。

いくら沢山話をしても言葉の定義が違っているのだから真に理解するというのはとても難しい、そして同じくその使っている言葉によって自他の人生はできているということになっている。

だからその人が常日頃、どのような言葉を用いているか、そしてその言葉がどのように定義されているかというのは、その人の生き方そのものを示しているのだから何よりもそこに意識を止めておく必要がある。

例えば、人生の中であまり恵まれた境遇になくてもその人が自分に誠実に素直に生きてきたのならばその人の使う言葉もまた同じく正直な言葉を使っているのである。

逆にそうではなく、同じような境遇でも自分から卑屈になり、責めて偽り、そして疑い、不安や不信に生きてきた人は使っている言葉がすべて自分を説得したりするために使われることで不誠実になっているからその人の使う言葉もまた定義としての根幹が素直でなくなっている可能性があるのである。

人は誰もが使う言葉は同じ言葉を使っているからこそ、その言葉自体が間違っているとは誰も気づかないのである。

しかし、何かを見直すというのは生き方から変えることであるからまず行うべきはその人の人生観が話す言葉を見つめ直すことからはじめることが肝心なのである。

具体的には、ある人が約束を守ろうと話すとする。

自分に誠実で正直で生きた人は、どんな理由があったにせよ必ず自分に誠実に命懸けで守る。しかし、今まで散々そういう約束を忘れたり反故にしてきた人では同じ約束を守ると言葉で語ったとしてもそれはケースバイケースであったり、すぐに勝手な言い訳や理由を使ってまた平気で破るのである。

其処が間違っているのに、その言葉自体を行動で治せないからいつまでも生き方が改善されていかないのである。

そうやってその人の言葉を深く傾聴するならば、その人の生き方や人生観を垣間見ることができるものである。だからこあそその言葉の定義がどうなっているかということから全てを見つめ直すことが大切なのである。

自分自身がいくら考え抜いたと思っていたとしても、その人の使っている言葉の定義がそもそも不誠実で間違っているならばそれは何をやってもうまくいくはずがないのである。

正直でいるとは、一つずつの自分の言葉にウソ偽らない真心のままに言行一致させていくことが誠実を尽くすことであり言葉の定義を正しくしていくことなのである。

信頼関係も、信用関係も、人と愛し合えるのも、すべては自分の今までの生き方の間違いに気づけるかどうか、そういう根底や根源から見直せるかどうか、其処から学び直せるかは真実の自分の姿を見つめることからなのである。

なぜ生きるのか、なぜ働くのか、なぜ続けるのか、なぜ幸せを求めるのか、そういうものをすべて見つめて刷新することがリブランディングなのである。

人は言葉を使って考える生き物だからこそ、その使う言葉ひとつひとつの定義を常に刷新し、その真心の言葉を学んでいくことを大切にしていきたい。

人生には、とても真摯に誠実に真面目に正直に素直に生きている美しい心の人たちが沢山いる。そういったものをそのままに感じるには、自分の今までの生き方を引きずるのではなく新しい生き方を学び直すことからはじまるのである。

その命の考え方、自分の命の置所をしっかりと捉えてひとつひとつの言霊をこれからも澄ませていこうと思います。