私たちの国の先人には、実践を学べる偉大な方々がたくさんいる。
私が尊敬する一人に、中江藤樹先生がいる。
今から約400年前に日本ではじめての私塾だといわれる「藤樹書院」をつくり、その弟子たちが実践することで徳風が広がり、そのずっとのちに松下村塾などをはじめ私塾というものの意義が各地へ広がったのではないかと私は感じている。
その藤樹先生の塾の学則は、冒頭に大学の明徳を明らかにすることを根本に据え、「天命を畏れ、徳性を尊ぶ」というような理念で日々の生活を通して学びを実施されていたということになっている。
この明徳というものは、人間誰にしろ備わっている心こそが自然あるがままの万物と一体になっている真の姿であり、この姿が明らかになることではじめて命そのものになるという意味になると私は解釈している。
そしてその明徳という自分に備わっている真心や命は、学問をすれば誰でも聖人になることができると言い切り、自らが致良知の実践を行って証明したのがこの中江藤樹先生であろうとも思う。
何かをやりたいのではなく、どうありたいかということを極め、その生き方そのもので聖人となることでその教えを広げるという考え方こそ、君子そのものではないかとその生前の姿に触れて感動することばかりである。
私が、現在学んでいく中でとても大事だと思っていることがある。
それは如何に日常というものが道場であるか、日々の自分の生活が実践の試練場であるか、そういう日々の中で自分の心と向き合い続けて理のままであるかどうかを確認することが道の上であるのだと思います。
最後に中江藤樹先生の明徳の詩を紹介します。
「天上心なくして 泰陽を生じ
人間意あって 新正をよろこぶ
人間天上 もと異なるなし
日用の良知 これ至誠」
日々に自戒を持ち、天地自然の道理に従い生きていくこと、之即ち、真心であるという気がしています。
秋の澄んだ青空のように天晴な心で今日も生き切っていこうと思います。