人は信じるというのに、自分の中で善悪を決めたり好悪を決めたりとしその信じる力を幸不幸に分別し使っているといってもいい。
ある人は、将来の不安からこれから善くないことがあると信じ、またある人は、全ての物事には無駄がなく意味があるのだからこれで善いと信じるという。
どちらも信じる心の不思議な力を使っているのだけれど、前者は結局、自分を主軸に良いか悪いかのところで信じるようにしている。そして後者はそうではなく、禍福一円としすべては善いのだと絶対的なところで信じるようにしている。
もしも人生が、逆算だとして最期が分かっているとしたらすべての出来事はすべてに必要なことであったと気づき安心して自分の命の道を全うするはずである。
しかし現実は、目先の出来事に一喜一憂し近い将来のことばかりを悩みどうするものかと右往左往していたらいつまでたってもその不安は消えることはない。
別にそういう不安を考えなければいいというわけではなく、自分の人生をどこまで丸ごと肯定できるか、これは何かしらの意味があるとし、どれだけその出来事を深く掘り下げ、取り上げる質を高めるかという本質的にどうかということが必要なのであろうとも思う。
人生が一度きりだからこそ、日々の出来事ということも同じく二度と同じということはない。時間が過ぎる無常さがあるのだから、私たちはその変化の中で学び自ら練磨してそれぞれの役割を全うしていくのであろうとも思う。
最後に、この信じる力というのは良いか悪いかで使うこともできれば、絶体的な一つの処に置いて使うこともできる。一歩を踏み出し、一歩一歩進むというのは、後者の絶対的に善くなるのだという丸ごと善いことにしてしまおうとする真実の信に転じる力こそが大切なのであろうとも思います。
何のために学ぶのか、それは知識をつけて良否や善悪を決めるためではなく正しいことをするためなのだと思います。
子どもたちのためにも、大人のモデルとしてきっと善くなると必ず善いのだと丸ごと信じることを信じると定義していく実践を明るく広げていこうと思います。