本質的であれ

人は物事を正しく観るためには、何のためにということから入らないといけない。逆の言い方をすれば、どうしようかから入らないということである。

何かの物事を頼まれてすぐに反射的に動こうとするのは反応力を高めていけば行うことができる。しかし、本来のその頼まれたことの本質が一体何かが分かっていなければ正確に自分を役立て一体となって遂行していくことができなくなる。

だからこそ共に働く人は、「何のためですか?」が最初に聴けるようになるということが仕事を学ぶ最初に覚える必要がある習慣ではないかと思っている。

人はやっているうちに自分でも本当は何をしているのかわからなくなっていながらただ夢中に流されるように業務や作業に没頭してしまうことがある。目先のものに必死になれば、気が付くと周囲が見えなくなり心許無いことをやってしまっていたりし、それでは本末転倒になってしまう。

まず仕事は、今、自分がやっている仕事は何のためにあるのかを思い、それを相談や対話をしながら本質的な境地まで高め、それから取り組んでいくことがもっとも効果と効率が善くなるということになるのである。

今の社会では、現存する一斉画一の学校教育がそうであったようにわざとかなと思えるくらい「何のためですか?」や「なぜですか?」ということを聴かせないような風土があるようにも思う。時間がないのか、教えることが多いのか、もしくはあまり現実生活や社会と結びつかないからか、もしくは何か隠さなければならない不都合なことでもあるかのように、なぜかを聞いたら怒られるや、何のためかと尋ねれば疎まれる、めんどくさい人などと言われるという空気が環境があるという。

そして社会人になって同じくなぜかと他人に尋ねると早く君も大人になれと言われたりもする。この場合の大人になれとは、分からなくても動く人になりなさい、言う通りにしなさい、もしくは長い物には巻かれなさいというような感じにも受け取れるようなことを言う。

しかし正しく自分を活かしたいと思う正直な人は、自分の天命や天分を活かすために、本当の仕事、本物の業務、真実の作業をしようと思えばそれを確認せずに動くなどということはしないはずなのである。

そして私が言うなぜ本質的でないといけないかと言えばそれは何かを行うすべてに心を籠める必要があると思うからである。

心を籠めないものは、そもそも人がやることではない。
人が命を使い、何かをするというのはすべてに心を遣うことを言う。

機械のように、作業ばかりを正確にやれば優秀だと勘違いしている人がいるけれど人として人にしかできないものは何なのか、そしてそれは何のために創られた仕事なのかを思えば自ずと答えは分かるはずなのである。

人は人に貢献をすることで相互扶助し糧が得られるのである。

常に本質的であれとは、そういう意味がある。カグヤは理念の最初に掲げる以上、常に真心と誠の一字を主眼に置いて日々の実践を丁寧に取り組んでいきたい。