変化というものを思うとき、感じ方は色々とある。
何かから変わろうとするのに、苦しむことで抜けられると思っている人がいたり、その反対に楽しめば抜けられると思っている人もいる。
変化というものは、そのまま受け容れるといっても人間には執着があるからそれを原理原則に沿って抜けることはとても難しいのでもある。
その執着は、過去の自分、未来への自分、何かの中で居心地が良い自分、必要とされていたい自分など、様々な空間や時間、その中での自分への執着観念があるから人は変化というものそのものでいることができないのである。
例えば、自分に厳しすぎるというのがある。
こんな自分ではいけないといくら思ってもその自分があるからいつもその今がその自分に囚われてしまうのだからいつまでも新しい自分へと時空の今にも向かわないのである。
新しい自分とは、決して昔の自分に厳しくすれば変わる事はなく今までをすべて忘れてしまうこと、新しい今、つまり新しい自分に日々に出会い感動する歓びの中にいることなのでもある。
それは今までの在り方を変えることを意味するのでもある。
例えば、今まで自分を一番信じてくれていた人に対して甘えて利用してしまっていたと気づいて、そこから大きく転換し、その人のために命懸けで誠実に尽くそうと行動すればそれで在り方がガラッと変わってしまう。
他には、愛する人から奪うことばかりしかやっていなかった自分に恥じて、ここれからは愛を循環させようと自分から愛する人になれば同じく在り方がガラッと変わってしまうのである。
この今というものの正しい処理、つまりは生き方や在り方を変換することを変化ともいい、その変化を受け容れるということは自分の身体も形もそのままだけれど中身だけが入れ替わってしまうということである。
ニュートラルやゼロベースになるというのは、パソコンで例えれば今まで溜まりに溜まったデータやメモリーがパンク寸前から再セットアップをしてもう一度最初の状態に戻すような感じであろうか。
元々最初の状態にできるということが変化を受け容れるということである。
今の自分がどうありたいか、今の自分の変化にこそ興味が湧けばそれが感動を呼んでくるし、感謝を連れてくるのである。いつまでも悔い自分を痛めつけることが変化と勘違いする人もいるけれどそうではないのである。
やり直しとは何か。
それは、もう一度最初から学び直したい、もう一度最初からはじめたいと思って新しい自分の在り方に自分を転じていくことなのである。
そのためには、そういう自分がそう在りたいという人、そういう自分のことを真底真心で見守ってくださる人の意見を聴くことからであったり、素直に自分のその心を信じてくださっている人の生き方を身近で感じて陶冶していくことなのである。
人は出会っていても出会わない人がいる。
しかし出会いが一期一会だからこそその人の出会いから新しくはじめるのである。
自分の生き方からガラッと変えるという意味は、いつも新しくそうありたいと思う自分、新しくはじめたいと思うこの今こそに照準を合わせて生きていくことをいうのである。
私の子ども心は、好奇心に満ちていて新しい境地があることを観ると心揺さぶられ楽しくなってきます。まだまだ日々のやり直し学び直しを味わっていこうと思います。