信仰心の本質

信仰心というものがある、これは信じる方を仰ぐ心と書く。

何があろうが絶対的なところで信じるという行為は、人が生きていく上で迷わずに覚めた人としているためには必要なものであろうとも思う。

通常は、何か自分に都合が悪いことが起きればそれが悪いことが起きると判断したり、目の前の出来事次第で一喜一憂しているうちに心が不安定になってしまうものである。

しかしそれを絶対的な場所で捉えれば、人生には無駄がなく全てが必要な偉大なプロセスの一部であるということになれば無駄というものはないことになる。

心がそうやって全受容全肯定で必ず善いことと思っていればいいのだけれど、少しでも疑いや迷いが発生すればすぐに心とのバランスが不安定になってしまうものである。

信を優先するというのは、心も頭も両方共が同時に理念や信念を守っているということでありそうしているからブレナイでいることができるのである。

逆に不信を優先するというのは、いちいち事物や現象が自分の思い通りいかないからと言い訳や愚痴ばかりを日々に考えて一向に何もしようとしない状態を言う。

人間は自分の信じたことを自分が信じてあげて最期まで遣り切るとき、そのことが如何に後でとても重要であったかを必ず人は気づくものである。

その瞬間はよく分からなくっても自分の本心が望んでいく方、自分の澄んだ心が求める方へと一心不乱に向っていけばその時、何か不思議な信じる力に自分が見守られていると実感するのである。

自分を中心に善悪を決めず、自分を中心に良し悪しを定めず、自分を中心に物事の正否を決めない、そういう素直な良心が働いているようにすることが信の入口であるのだと思います。そして入ったところから継続して改善を繰り返すことで全体にとって善いことや、社会にとって最良のこと、生き方として正しいことになり、万事如意の状態になるのだと思います。

信仰心の本質は、全てにおいて絶対的な自分を信じることができるかどうかです。

日々は道場、人生の修練場であるからこそ、自分を信じるために心の中に起きることを見つめ正し、誠を尽くし、常に学び直しを楽しんでいこうと思います。