感情というものには、喜怒哀楽様々なものがある。
嬉しいと思える感情と寂しいと思える感情もどちらに良し悪しがあるのでもなく、どちらに正否があるのでもなく、そのままそういう感情があるということである。
例えば出会いというもので考えてみる。
出会いは、出会いの瞬間が感動であればあるほどに、その別れもまた同じく感動のあるはずである。そうなれば感情も同じようにその出会いの時のものと同じものが別れのときに訪れるのであるのだと思う。
感情は嬉しさから寂しさへ、楽しさから哀しさへ、喜びから怒りへと、まるで陰陽あわさっているかのように様々な形に変化しバランスを取っているのであると思う。
その感情の何かを人は否定してしまうことで、本来、自分が最も望んだものを否定しようとしてしまうことがある。しかしその矛盾にバランスを怖し自分の心身が苦しむことになったりもする。
人はそれに耐えられず、素直な心で生きるなら如何にその感情自体を理性で避けようとしても結局は自分が最も望んでいる方を最終的には選ぶのである。それに感情を押し殺して生きるのはもっとも悲しい生き方でもある。
子どもの頃、愛され過ぎた人は人を愛しすぎるのかもしれないし、悲しみがすぎる人は人を悲しませすぎるのかもしれない。しかし人はその両方の人が出会うことで、御互いの埋められなかった感情を埋めたり、補ったり、支えたりするのであろうかとも思います。
そしてそうやって出会う新しい自分との出会いというのは本当に素晴らしいものだと思います。
新しい自分は、過去の自分との別れでもあり、過去の関係の卒業は、新たな関係との入学でもある。人は、節目というものがありいつの時代もどんな時でも新たな環境で自分自身と出会っていくものです。
私自身は一期一会を座右にしていながら、どちらに偏り過ぎるのはまだまだ未熟だからであろうとも思います。しかし、この感情を味わい尽くしているとき自分の人生がそして他人に対しての真心が相手を自分を大切にしていきたいと思えるから出会いには哲学があるのだとも思います。
人は誰にしろ、出会いと別れを繰り返し成長していくものです。
何かの別れは新しい出逢いを彷彿させてくれるものでもあります。
同じ志を抱く人には、出会い別れはなく永遠に道の途中、共に受け継いで生きていくのだとも思います。
しかしそうではない人とも大切なご縁がある。
すべてのご縁を善きものにできるかは、自分の心がけ次第である。
私は座右に対して恥ずかしいことをしないように、まずは自らの信念に沿って生きていきたいと思います。
原点に帰れる場所があることに深い感謝です。