天を信じる

出来事を観るとき、自分だけの一方的な価値観で視るのは危険なことである。

果たしてそれが本当はどうなのかは、自分の先入観や感情を交えずに冷静になって観照してみなければ本来の正しいことは分からないのである。

これは例えば、現象に対するものでもそうだけど一見、良くないことが起きているような出来事が起きたとしてもそれは長い目で観るととても素晴らしいキッカケを与えてくれていたことが分かったりもする。

またもしも良いことばかりが起きていたりせよ、それが実際は後の試練に向かっていることもある。

つまりは、目先の出来事がどうかではなく如何様にも転じる力、それを自然な流れであると受け容れる力、そして自分がどうあるべきかを見抜きそれをじっせんする力など様々な力をバランスの中で活かしてこそ本来の天命を活かすに至るのであろうとも思う。

これは人間万事塞翁が馬の故事にあるように、人は如何に泰然自若と信じるかが心胆の練磨により可能になるのだとも思う。

そう考えてみると出来事には本来、善悪があるわけではなくただ陰陽があるのみである。人智を超えたところで、その陰陽は働き、それはまるで私たちが何か偉大なものに活かされていることを知るかのような出来事を感じさせるのであろうとも思う。

陰陽を感じるとき、如何に自分の浅はかな判断を容れないかということであろうとも思う。

その陰陽のバランスが保てるように様々なことを通じて私たちは自分の生き方を普遍的なものへと自然にあわせていくのであろうとも思う。生命とは、そういう絶妙なバランスが生み出している奇跡であり、そういうものが一切別れずに全体として存在するときにはじめて自分というものの本質が顕われるのであろうとも思います。

感覚を近づけて知っても、感情により心が曇ればまたいつもの価値観に支配されるようでは平常心が身に着いたとはいえません。どんな時も、ある一点を信じられるよう遠くを観て実るのを待とうと思います。

考えても分からないことは考えないのは決して受け身ではなく、天を信じるからであろうとも思います。

バランスが取れなくなっているときこそ、信じる力が振り戻すのだと思います。学びを実践から掴み取っていこうと思います。