自然を観るとき、全体にとってどうかということは遠大な心で感じなければ理解できることではない。
一見、対立するものが実は長い目で観れば必然的に調和していたり、あまりにもかけ離れたものが一番身近なことであったりもする。
自然界は、様々な形に変化を繰り返しながらひとつの調和へ向けて合成されているのであろうとも思う。
妥協も理想も、時代的な役割分担があり、何かの一方に偏ることでそうではない一方に偏ろうとするのはこの世の法則なのであろうとも思う。
人間の集団を考えるとき、その土地やその地域に必然的に発生する気候や風土にあわせて文化というものが起きてくる。
砂漠には砂漠の、湿潤には湿潤の、平原には平原の、山岳には山岳というように切っても切り離せないその土地の関係性から全ての生命は様々な進化を遂げてきたのであろうとも思う。
都市化されてくると、その環境の変化というものと切り離した世界を構築するから進化するということに鈍くなっていくのであろうとも思う。
進化とは、成長とは、自然の微細な感性に自らが感応するときに真価を発揮するのであると私は思う。それは、人との間だけではなく物との間にもシンクロニシティを感じるような出来事をたくさん積み上げて気づき呑み込んでいく中で感動しながら発達を遂げていくようにも思う。
つまりは自然の中でしか育たないということである。これは単に川や山などの自然のことを言っているのではない、これは自然あるがままの環境のことを言う。
内外一体の自然は、その自らの心の中にあるものとと宇宙一体のものとが混然一体になっている姿こそある。
成長の本質は、自然との調和にあるのだから決して成長するということは、人間個人の意図的に頭で判断して独りよがりに計算できるようなものではない。
成長とは、自然の持つ好奇心のような内面の深い葛藤に感応していくかのように万物を必然的にそのもの全体を受け容れ、その中で最も善い理想を貫くときにこそ命の煌めきは真に輝くということと同じである。
そしてその命が煌めいていないものに成長はない、言い換えれば、成長とは自然に命が揺れ動くことであり、精魂の揺さぶりのような驚異的な感覚のことなのである。
人生は二度とはないからこそ、無難に生きるという選択をしながら成長ができるとは甘えてはいけない。人は頭で生きるのではなく、心でこそ生きるからである。
そして私も実践者として一期一会に生きるからこそ、有難であろうとも理想を貫き最期まで諦めずに遣り抜くという気持ちを優先していきたい。
子ども第一主義の第一とは、理想のことである。
理想は、現実によって磨かれ、現実は理想を明瞭に澄ませてくれる。
愛する仲間たちとともに人生を楽しんでいこうと思います。