生態系というものがある。
ある一定の地域の中で総合的に全てのものが密接に関わり合う循環環境システムのことを定義している。
これはヒトに限らず、虫や花、風や光、水など様々なシステムが同時に機能していることで生命がどのように存在するかを生態系から探索しようとするものである。
その中に食物連鎖というものがある。
多様な生態系の中で複雑に食べるものと食べられるものが分かれ、その中で自らの命をすべてにおいて役立てることで生命は自然を謳歌しているものである。
今のように、ゴミが生まれたりすることは自然界には元々ない。
その生態系の中では不必要という概念はこの自然の偉大な愛に包まれている実感の中では存在しないのであろうとも思う。
食べるものも食べられるものも、自然に受け容れるのはその命の存在を身近に感じる程に密接に生態系の関係性の中で生きているからであろうとも思う。
今の人間は、関係性が薄れ何が自然かというものから遠ざかることで生態系とのバランスが取れなくなってきている。食べるや食べられるということが、経済という架空の切り取られた文明の中で存在していけば次第に強者の理論がそのうちに優先されることになるのであろうとも思う。
この食物連鎖の中では、実は捕食的強者と言われる高次元消費者は実は非常に弱い存在だという。その存在の環境がどうなっているかを観察すれば、自然界の今がどんなことが起きているのかが分かる。
例えば、鷹でいえば関東の雑木林の傍にはサシバという鷹が棲んでいるけれどそのサシバが生きるには50ヘクタール以上必要になる。もしもオオタカなら100〜200ヘクタール、イヌワシなら6000ヘクタールもの土地がいるという。
もしも、森林が少しでも壊れれば小さな生き物が減りその上の中型の生き物が減り、最後の大型の生き物はほとんど身近に食べるものがないということになるのである。広い範囲はより広くなり、食べ物がなくなることで数はより減っていくのである。
森の中のシカやイノシシ、サルのような大型のものも、森林が破壊されれば食べ物がなく人里で田畑を荒らすのは人間が獲り過ぎているからでもある。
何をもって森林かというと、その生き物たちの関係性の破壊のことである。
これぐらいはという小さな草原や生き物たちとの繫がりの破壊は、必ず広大な範囲の存在を危険にしていくということである。
太古の智慧ある人間はそれを知っていたから、目先の利よりも長期的で持続可能な義を優先して自然界の掟のしっぺ返しにあわないように工夫をして環境という関係性と共存していたのだと思う。
この原点はもともと自然の中で私たちは食べ物を分け合うところからがはじまっているのであろうとも思う。
自分の食べる分が他とバッティングしないようにどうするかを自ら律して考えることで進化してきたのであろうとも思う。本能的理性というものがあり、元来争わないようにすることが本来の自然の姿で争ったものは最初にいなくなっていくものであったはずである。
今の時代は、何から本来のあるべきようを学び直すのか。
集団や社会生態系ではないけれど、生きるとは何か、生き残るとは何か、子ども達の未来を思えば、食物連鎖の頂点になってしまった人間が選択していく道を示すことが今の私たちのヒトの役割でもあろうとも思います。
偉大なシステムの中でヒトがまず調和するということを実感するのは、それが自然環境を知るに繋がってからだとも思います。余計な知識は必要ではなく、自然の中にある生態系を観察するだけでも自然教育だとも思います。
今からは特に欠落してきた繋がりや関係性の新生の時代に入る気がします。
まだまだ観察眼を磨いて自然の姿をそのままに研究していこうと思います。