鎮守の杜と呼ばれる聖域の山とは別に、里山というものがある。
都市と自然がちょうど合わさったところで、人工的に自然を活かしながら共生していこうと考えてつくられた地域のことでもある。
自然か都市かではなく、その間でということでもあろうと思う。
今までは急速な都市化が続き成長の限界を感じて過渡期に入っているからこそ、これからはそういう考え方が広がっていくのではないかとも思う。
しかし基本的には、どんなに自然というものを意識してみてもそもそも人間は自然の中にいる生態系のほんの一部でしかない。例えば空気、光や水、様々な鉱物などもすべては共有財産として私たち生命はその存在をシェアしているのと同じく全体から観れば分かれてはいない。
元々、自然を切り取るという発想は人間の考え方であり自然とはもっと目には観えないけれど偉大なものを感じるときにこそ顕われるもの。
そういう「天」のようなものを鑑みているときにこそみんなで使っているものだからと分け合ったり、自分の分限を守ったり、思いやりという気持ちが生まれてくる。
それが天に命が活かされているという実感になっていく。
しかし、今の時代はまるで切り取った自然を自分のものといわんばかりに国は天然資源も自分のものと言い張り紛争し、様々な動植物も乱獲し続け他に人に獲られないようにと猛烈に奪い合っている。
人間が自然を切り取れば、こういうことになってしまう。
この価値観では人間の文明は長くないと気づくのがいつかということである。
この里山の人工林も、自然の中で生きることが大事のように語られているけれど私はそうではなく如何に生態系の中にいることで穏やかな心になるか、優しく思いやりを持てるか、他の生命との一体感を感じているかということを学ぶ方が大事なのではないかと思う。
人間はすぐに人間中心にモノゴトを捉えて一方的な価値観で自然を観ようとするから里山も今の都市化された目線で見つめればおかしな話になる。私が思うには、元々思いやりがあった人間、優しい人が生きている場所だから里山ができたのだと推察している。
これは以前、滋賀の里山が中江藤樹先生の近くに存在しているのを聞き、その徳風がその棲家周辺及んで様々な生命を活かしていることを実感したからでもある。
きっと里山ができるのは、その地域に優しく思いやりのある人たちが集まっているからそういう思いやりのある地域が形に顕われ里山になったのであろうと思う。如何に、形だけは里山ができたとしてもそこに住まう人たちが思いやりと優しさがなければその里山は真の里山とは言わない。
厳しい自然の中で、人が思いやり生きていくことこそ人の道だからである。
人間が思っているほど、自然は小さな存在ではなく本来の姿からすれば人間がやっていることなどはたいした影響はない。偉大な厳しさも慈しみの真心のままに自然はすべて受容しているのである。
自然の中には、私たちが探しても探しても見つけられないような真理がしっかりと詰まっている。自然に従いちゃんと観察して応じていれば余計な迷いは消えていくのである。
人間が自然をどうこうする前に、自然から思いやりを学ぶことが今、求められているのである。
今年は大きな変化が続いている、今まで以上に自然に寄り添い観察し自分の生き方をそして天命を感じてかんながらの道を歩んでいこうと思います。