身近なテレビの議論を眺めていると、人間はさももっとも知識があるかのように評論しすべての出来事を狭い世界に切り取りすぐに善悪を決めようとする。
その善悪の基準がすべて人間中心なのだから、どちらかに偏ればどちらかに偏るのは当然であろうとも思う。
この世は、陰陽渾然と一体になっていてどちらかに偏れば必ず反対側に偏ろうとし、真ん中の場所を探してバランスを取ろうとするものであろうとも思う。
それは自分の内面にも同じものがあり、自分の中で何かのためにと思ってもそこに私が入るのならばその反対が生まれてその葛藤の中で苦しみが生まれたり迷いが発生したりするものである。
そういう私を中心にしない、全体の中に在るあるがままの場所こそが、王道というものであり、中庸と言われるものである。しかしこれは自分のちっぽけな頭で考えてそのバランスを取ることはできないのだからそうならないように心の実践がいるのであろうとも思う。
過去の聖人もすべて、心の中にある聖なるところで居ようとし様々な修行を通して真の自分を修養していったのであろうとも思う。孔子もブッダもイエスもすべて弟子が文章を編纂しているのを観てもよくわかる。
あれは、決して本で学んだ知識ではなく心の実践で得たものであろうと思う。
心でしか、世界が平等であること、万物すべてが一体であること、自他の区別がないことなどは理解することはできないからでもある。
人間の持つこの浅はかな分別知というものは、文明を築く上では価値があるけれどそれを使いこなせず、単にそれを維持しようと余計な知識を頭にばかり詰め込むから問題が生まれるのであり、その知識が増えれば増える程に便利になるけれどそうなればそうなるほどに世界がバーチャルになっていくのである。
本当の世界から切り離してゲームのように人生を送っても、実際は何かを生んだわけではなく繋がりが次第に途絶えているのだから最終的には引きこもりになり自己満足の世界に入り込んでいるうちに役割が果たせずに終わってしまうのでもある。
自らの天命を感じて役割を尽くすというのは、本来の世界とはどういうものかを知るに至ることでありそれは心の澄んだ場所がいつも観ている場所に住んでいることをいうのでもあると私は思う。
なぜなら真の場所とは心でしか本当の慈愛や畏敬を感じることができないのであり、それこそが自然の姿を心が感じているということでもある。
頭で怖がることや、ただ表面上の感謝していますというのは心が素直でやっていることではない。素直な心とは、そういう頭で偏れない場所、その絶対的な不可侵の澄んだ空間のような世界でこそ感じることができるのであろうとも思う。
私にすればまるで朝夕のあの陽の光が差し込んでくる黎明の時間帯に、心が感じている世界こそが澄んでいる空間なのである。
心を歓ばせていきることこそ、真の世界であろうとも思う。日々に、実践により心のままにあるがままに生きていく叡智を学んでいきたい。