人は答えが分からないから不安になるけれど、それは最後まで遣り抜いていないからだったりもする。
本気とは何か、それは続くことである。
そして続くとは何か、それは遣り抜く意志であろうとも思う。
人生も等しく、途中では分からないから謎であり不思議なのである。
人生の最期に、遣り抜いたときこそ「ああ、あれはこういうことだったのか」と分かるのではないかとも思う。
しかし今の時代は、先に分かってしまい何でも中途半端にする人たちが多い。
先日、自宅の玄関アプローチを創造した。
時間が経つと、木も傷んでくるから新しいものへ変えたりペンキを塗り直したりもする。今までのものを修理するのもいいけれど、今の自分がどういうものかそれを上書きする方が私にとっては面白い。
それを創るのだけれど、枕木を買ってきては配置し、石を持ってきては配置しと、周りは何をやっているのかは分からないのである。
しかしそれが次第に姿を顕してくる。
最期には、どのようなイメージだったのかというのをはっきりと明確に理解でき感動をするのである。何かを建てるというものも、自分の理想を実現するというものもこれと似ていて同じように取り組むのである。
途中では分からないからこそ、イメージをあわせてどのようなものをしようとしているのかということを理解する価値があるのでもある。もっとも大事なことは、その理想形を自分も観て感動するには最期まで遣り抜かなければ観えないのである。
そしてこれは道も同じく、遣ると決めた以上は途中では投げ出せないのである。
その道の先に広がっている世界が観たいのならば、最期まで遣り抜いていかなければ実現しない。それが壮大であればあるほど、何代もの意志を貫き、「ああ、これだったのか」とはじめて感動し理解できるものである。
志とは何か。
最期まで遣り抜く強烈な信念のことでもある。
すぐに何かと比較してわかってしまい諦めるというのは、信念の問題である。
常に自分らしく、理想を追って生きる姿を子ども達には見せていきたい。