ドイツでの保育研修も2日目を過ごした。
外国で過ごす最初の日は、ほとんどの物が真新しく感じて見るものが多く自分の価値観から認識できるものを探そうとしてみるものである。
あの建物がどうだとか、あの保育の遊具がどうだとか、きっとこうなのだろうという推測や思い込みが先に出てしまうと本来のそのものの姿を捉えることは難しくなるものである。
例えば、飲み物というひとつでも量も違えば、味も異なる、そして生活にどのように定着しているのか、また出し方などのマナーやそれが出ている経緯など、その一つのものを観たとしても自分が思っているものとは実際は同じではない。
しかし人は、自分の体験からでしか物事の推察ができずに勘違いをすることになる。
そう考えると、世の中のほとんどが勘違いだと言えないだろうか。自分の体験により刷り込まれた先入観や固定概念が、其処から自分を抜け出させない。
そのために共通の同じ言葉を聞いても、共通の同じものを観ても、それが本性を顕しているのではなく表面上の浅い特徴だけを観てしまっていることになる。
自分の過去の体験というか、気づきがどれだけ純粋なものであるか、そのモノゴトを如何にそのまま正直に感じることができるかは、いつまでも自分の心が捉われのない澄んだ清らかな感性や感覚でいるかどうかにもよる。
知識によって知ったことや、それを認識した体験で分かるということはその感性を曇らせていく。そうやって生きていく中で人は様々なものを自分の観念を通して歪めてしまうのである。
真に生きているということは自然体になることで、それはあの曇りなき澄んだ青空、あの優しい透明な感性、純粋な清らかな心があるがままの本質や本性を観照するのであろうとも思う。
それをどれだけいつも持続できるか、その自然との関係性ともいえる生死の仲の平常心が日々の修養や陶冶によって実現していくのであろうとも思う。自分を守るために知識を得る人ばかりだけれど、本来守るのは本当の自分、それは魂ともいうべき自然と一体化している真心の自分のことである。
私はこの保育というものの空間にこそ、その心との関係性によりできる真理信性が人々の心を陶冶しているのではないかと感じる。
生きていく中での誰とともに歩んでいくのかが大事なのは此処に保育があるからである。
時代が変わっても、その時代を丸ごと受け容れてその時代に生きる者たちと共に生きていくことで命の種たちの生長を見守り大切に育てることが人間陶冶ではないか。
ドイツでは陶冶プログラムというものがあるようで、それを全施設が取り入れているのだけれど実際はそれがどんなものなのかはよくわからない。
しかし、人は西洋問わず、年齢問わず、男女問わず、真に澄んだ清らかな心こその「間」にその誠の道が顕われている。
今までの体験を超えた体験はすべて子ども心が知っている。
繋がりの中に続いているものを如何に見出せるか、子どものような気楽なステップを踏みながら好奇心を発揮し、新たな道の手ごたえを学びたいと思います。
今日は3日目、旅の発見をまだまだ振り返りつつみんなで楽しみたいと思います。