偉大な存在

身近なところにいる偉大な存在に親がある。

生きている時には、あまり分からなくてもいざいなくなってしまうと自分にとって如何に偉大な存在であったかと分かるのも親であろうとも思う。

他にも身近にいてくださる師や自分を育ててくれているメンター、また上司などもそうだけれど如何にその存在が有難かったかとは人はあまり実感しないものである。

これは天地自然と同じく、当たり前すぎる大きな存在は意識しないのであろうとも思う。

人間はそういうものには感謝をせず、そうたいしたことのないような持ち物や表面上の繋がりや体面体裁など結構どうにでもなることに執着してしまっているものでもある。

誰のことがどうだとか、将来がどうだとか、昔がどうだとか、そういう身近ではない遠くのことばかりを心配して如何に自分が見守られているかということを実感しないものである。

みんなそういうものは失ってみてはじめてその存在が大きかったと感じるのであろうとも思う。

生きているうちに、あれも聞いておけばよかったやもっと話をしておけばよかったと悔いてしまうのは今、この瞬間の感謝が足りなかったことへの自省なのである。

当たり前の存在に感謝するというのは、毎日太陽が昇ることへの感謝であったり、水があること、空気や風、この自然があること、また自分を生んでくれた人たち、自分というものを存在してくれている周囲、自分のことをいつも大切に思ってくれている人々へのすべてに得難い邂逅をいただいているのだというご縁を感じてはじめて成るのであろうとも思います。

あまりにも偉大な存在には人は無頓着なものです。

だからこそ、偉大な存在を感じる必要がありその偉大な存在への返しきれない御恩に報いるためにも天命を知り人事を尽くす今を生きることだとも思います。

有難い、有難うという言葉にはそういうものへの日々の実践が籠められているのです。当たり前ではない当たり前を感じる心こそが、真の魂の力であると思います。

自然に生きるということは、当たり前のことができるようになることです。
そしてそれは自分を欺かず正直で素直な実践をできているということです。

偉大な存在を身近に感じるだけではなく、それを見守り合って自らのままに存在を丸ごと包んでいこうと思います。

目から鱗が落ちる

色々な人に出会う中で人は人生を彩り豊かにしていくものである。

今までの自分の知らなかった新しい生き方に触れることで、人は自分の人生をどうすべきかということに気づく機会を得られるのである。

自分がどう生きるのか、どう生きたいのか、漠然としていたものから明確になりそれを覚悟するというように人は自分の人生を豊かにしていくプロセスを経ていくのであろうとも思う。

以前、師と講演行脚を同行する中でもっとも多かった聴衆の声に「目から鱗が落ちた」というものがあった。その時は、同じように自分が話したとしてもそこまでの感嘆は得られずなぜだろうと疑問に思い様々なことを試したけれど同じようにはならなかった。

もともと目から鱗が落ちるようなものは説得や説明などのテクニックでできるようなものではない。

その人本人の目の鱗なのだから、その人自身が何かに気づいて自らで落とすということになる。

その当時は分からなかったけれど、今では分かるようになったのはそれはその人の生き方に感動したから目から鱗が落ちたのである。

自分の今までの誤った生き方、迷い惑いから目覚めた時にポロっと鱗が自然に落ちるのである。自分の生き方とあまりにも違う人を目のあたりにしたとき、自分が今までやってきたことは間違っていたと素直に気づくからなのである。

人は出逢いによって、その機会を得られ誤りに気づくことになる。

出会いが人を創り、出会いが人を目覚めさせるのである。

いくら相手を変えようとしても、変わるのは相手自身の問題なのだからいくらこちらが一方的に頑張って話をしてもそれでは相手は変わらない。自分の生き方、自分の生きざまに触れてもらって本人が自らの誤りに気づくかどうかは相手の問題なのだから真摯に自分を生き切ることである。

自分が自分らしく生き切ることこそが、相手の人生に気づきやキッカケを与えてチャンスを広く大きく創造していくのである。

相手を思いやるということは、自分らしく自分の人生を生き切ることである。

誰にも我慢せず、誰にも遠慮せず、自由に自分らしくいることである。

それは自分の決めた生き方を何よりも優先するという、覚悟なのだと思います。
根本的には、人は自らだけで変えることができません。

出会いが人を創っていきます、先入観を捨てて新たな出会いやご縁を楽しんでいくことが自然な姿であろうとも思います。

一期一会の座右に恥じないよう、自ら「生き方」を何よりも大事にして御恩返しを社会にしていきたいと思います。

守ること

先日、コンサルティングに入ってから4年目になる園内の視察を行った。

御互いに取り組むことを決め、実践を続けていくと3年目くらいより現場の随所に様々な信が顕われてくる。今回の視察でも、互いに信じて守ってきたことが理念として形ができてきているのがよく分かる。

何よりも理念を掲げて信じて遣り抜いたことで新たな境地に達している姿を視ると、子ども達のためにという真心が本気であったことを感じます。

当然、仏教園なのでお釈迦様の御蔭、子どもたちの御蔭、見守ってくださったすべての周囲の御蔭だとは思えども、正しい努力を続けてこれた皆さんの本気が天に通じたのだと思います。

私自身、改めてとても感動する日となりました。

私たちの会社の役割も、改めて実感し、共にこれからも日々に新たに挑戦していきたいと思います。

今回の要諦としてまとめておくと、何を守ったからそうなったかということが重要になる。その守るという概念、守るということの本義、守ることにより信が生まれそれを守り続けることで信を積むということである。

森信三先生の恩師に西晋一郎先生がいて、こういう言葉を遺している。

「信ということも色々に言い得るのでありますが、先ず信は守るなりと言う。物はすべて守らぬと物にならない。また自分に信じるところがないと守るとはいえない。守るということが信ずることであり、信ずるから守ることとなる。」

これは私も同感で、守り続けるのは信じているからである。何かを決めて守るのは、それを信じている証なのである。決めたことを守れないのは、信じる事をやっていないからである。一度決めたら、守ること、守っていることこそが信じているということになるのである。

またこういう言葉も遺している。

「春花を開き、秋実を結ぶは天地の信でございます。また、一握りの肥料も多く施せば必ず其れだけの効果があり、一鍬も深く掘れば必ず其れだけの効果のあるも、草木自然の信であります。この天然自然の信に違わぬよう人間も信をもっていきます。」

そして続けて、

「天地自然の信は人間の手本になりますが、人間の信によりまして天地の信も生きてきます。」

とある。

この信というもの、自らが信であるからこそ自らを活かし周囲を活かすことができるのである。

常に自らが先ず「守る」「守り抜く」とはどういうことか、理念というものをどれだけ優先して取り組んだかが変革の要諦である。

これからも社業を通して、見守ることを実践していこうと思います。

自分との付き合い

人は感情とどう付き合うかで自分をコントロールしていくことができる。感受性が豊かな人というのは、様々なことを感受する力が誰よりも鋭い。

その持って生まれた個性を活かすには、その感性とそのままの現実のバランスを如何に保つかということが必要になる。

先日、あるメンターから自我と真我という話を伺った。
これは、自我だけが本当の自分ではないということである。

その感情の自我ではなく、仏性とも言える本来の自我の両輪を融和してこその真我というものであるというような感じであろうか。

自分の人生というものを振り返る時、如何に感情というものに左右され様々な判断をしてきたかということがよく分かる。

感情に左右される中での判断では、自分というものが本来の姿とは分かれてしまうから様々な無理がでてくる。その無理をいつも通していたら、正しい努力や正しい判断、正しい感覚が持てなくなり感情が自分を支配してしまうこともある。

自分の感情がどう思うのか、その時、自分の心はどう感じているのか、自分の主が心であるのか、感情であるのか、どちらも自分なのだけれど感情を心の内に容れているからこそ本当の自分のままに素直でいることができるのであろうとも思う。

人は生きていく上で、自分の感情を押し殺すためにこうしなければならないや、こうすべきだと自分を偽り正直でいることよりも自分が周囲に迷惑をかけないでいいようにと強迫観念を持ってしまうものである。

それを一人二人と増えていけばいくほどに、次第に世の中がおかしな人間関係を増やし社会を不安にしていくのであろうとも思う。

だからといって、無感情人間になればいいということではない。

自分と上手に付き合っていくということであり、自然体であることである。

人間が無理をせずにそういう自然体でいるとはどういうことか、その感情で歪んだ世界だけで物を観るのではなく、自分のあるがままの心、色々な感情を持っている自分を丸ごと受け容れ、丸ごと相手も同じように認めるときにこそ正直な自分でいられるのだと思います。

自分という船をどう乗りこなしていくのか、人間は未熟だからこそ様々な出来事や人間関係からその付き合いを学びとっていくのだと思います。日々はそういう学びとっていくことができる唯一の充実の日々であるのだと感じます。

子どもたちのあの感情豊かに調和する姿を見ながら、保育するとは、真の大人になるとはどういうことかというのを体験します。社会で生きていくのならいつまでも幼稚な姿のままで変わらないというのはおかしなな話です。

貢献と共生が、子ども達一人一人の自分の立った一度きりのその命を正しく使っていけるよう、大人たち自らが社会を構築しながら自分というものとの付き合いを学び、その豊かな一体感を味わいながら楽むことだと思います。

思いやりの実践

思想を磨き上げていくということと、現実の現場を善くしていくということは分かれてはいない。思いとして、如何に自分がそうありたいとしていても実際の現実がそのようになっているでなければ机上の空論ということになる。

思っていることとカタチにしていくことと、カタチになっているものをより思っていくということは同じことであろうとも思う。

その間にこそ、真実が存在しているのであろうとも思う。

昨日のブログの、分かると悟るの違いと同じく、ここでも思っていると実践することの違いと同じくすべての出来事はやっていなければ意味をなさないのである。

思ってばかりでやらなければ、何も顕われてはこない。

大事なことは常に現実の現場の出来事の中での実践を通じてしか、自分を本当の意味で修めることはできないということである。

動きながら考え、考えながら動く、その間に何を思い何を行い何を磨き何を得るかということが実践哲学なのであろうとも思う。

王陽明に、「事上練磨」がある。

「思想というものは時に現実から遊離して一人歩きをし易いものであるが、王陽明はそれを戒め、本当の思想・理念というものは決して日々の生活から遊離するものではなく、何ら変わらぬ日常において自らの良知を致す事こそが、真実の意味における学問であり自己修養なのだと説いた。」

これは、今を生き切る上での具体的な実践論である。

今が真剣であるかどうか、今に打ち込んでいるかどうか、今から逃げずにいるかどうか、今、まさに此処にやるべきことを自分の問題だと思い打ち込むかどうかにその真実があるのであろうと思います。

思想ばかりでやらないよりは、思想を置いてでも遣るほうがいい。

それは今を遣り切るかどうかのモノサシなのである。

時は今、今は時、今生に常日頃思っていることを実践してこそ事上練磨である。

言い訳や言い逃れ、責任転嫁のために思想を使ってしまっては良知まで到達できずに自分の心をより曇らせてしまうものである。今、やらないといけない仕事や何よりも自分の社会の中での役割、会社での役目などを真摯に愛情を籠めて一つひとつ為していくことこそが優先すべきことである。

優先順位を決めることはこの今に大切なものを守る順である。

思いやりとは実践することである。

思いやりの実践を心を籠めて形にしていこうと思います。

生き切る

知るということと悟るということは異なる。いくら知識を先に得ようとも、遣り切っていないのならば実体を理解することは難しい。

知るということと行うということの間にこそ、その悟りの境地のようなものがある。コツを掴むというものも同じく、何度も何度も遣り切っていく中でその言葉にはできないけれど頭と体の間ではじめて得ているのであろうとも思う。

人間の体験とは、知識が先かと言えばそうではなく、先に心で感じて心で動くことが何よりも大事でそのあとに知識でその理を自らに定着させていくといい。

今の時代は、何でもやる前に遣り切る前に頭でっかちに考えて方法論なかりに囚われ何もやろうとしないことが多い。

心か頭かと言えば、やっぱりいつまでも頭で先に考える人が増えたのは失敗を怖がったり問題を恐れるからであったりもする。

この国の教育が、100点を目指させ能力一辺倒に完璧な人間を目指させてきたからこのような弊害を受けているのであろうとも思う。エリート教育をすることで、実際は世の中にはエリートしか必要ないかのような差別的な社会を構築するのは今の国の価値観のカタチである。

本来の社会とは、エリートだけでやっていくのではなく様々な人たちが様々な長所を活かし合い、助け合ってきたことで豊かで平和な幸福度の高い社会を築き上げてきたはずである。

世界と競争し、経済を優先してきたツケが人々の心に巣食ってきている。

人は何をするにせよ、その人そのものの天命を活かすことが第一であり国家権力のために活かすことが命の役目ではない。使命感とは、その人の人生の生き方や生きざまのことであるから一度しかない人生だから心が先に決めることで心が感じて、心がやったことを頭が理解するという方が楽しく充実した日々を送れるのだと思います。

どんなに悩んでいたとしても、立ち止まって悩んでいるだけでは世界は一歩も動き出しません。勇気を出して飛び込むというのは、頭で考える前に行動することで今の一瞬一瞬に命を懸けることだと思います。

あの子どもたちのように、今を生き切ることこそが人生の妙味を感じて命を正しく使っているのだとも思います。

何でも信じることからはじめ、信じたことを遣り抜いていくことで自分の人生を樹立していくことを優先できる人が世の中にたくさん増えることだと思います。

このような時代、子ども達の手本になるような今を生き切る日々の生き方を自らが実践しつつ自らの本業に邁進していこうと思います。

夢の乗組員

理念やビジョンに向かって何かを行うときには、そのものを自分がやると決めた人がたくさん集まってこなければ本当の意味で実現に向かうことはない。

仲間というものや同志というもの、同じ船に乗り込もうするには乗せてもらったや、頼まれたから乗ったではなく、自分から自分の船だと覚悟してから乗船することで乗組員の一人となる。

まるで客人かのように乗ってしまえば、その航海に参加するのではなく「ただ乗せてもらっている」ということになってしまうものだ。

自分の船だや自分のことだ、自分のものだといったそのものとの「一体感」とは相手がいてはできず本当の意味で自分の人生とその仕事やその夢が一体だとなっていなければ乗るということになっていない。

航海中は大海原で船長の判断で様々な困難を乗り越えて新しい大地へと突き進んでいく。

その中では、事前に準備することができなかったりしたものを現地で調達したり新しい大地への航海時に仲間との出会いや別れなどもあり、その冒険の日々は夢と希望を載せて限りなく航海路は続いていくのである。

今の社会では、自分で「乗る」と決めていないまま他人事のように船に乗っている人がとても多い。

自分の人生を自分で切り開いていくこともそうだけれど、言われたからや、そうなってしまったからとか、頼まれたからとか、他に誰もしていないからなど、何でも受け身になったままで船に同乗しているということになっている。

同じ船に乗るのなら、なぜ自分の船だと思って一体感を持って自分から乗ると決めないのか、その人の船だとか、みんなの船だからと遠慮しているけれどその心の決め所の差こそが夢を持っているか持っていないかの分岐点になっている。

同じ夢を心に描き、その夢に向かって取り組むとはどういうことかといえばそのリーダーが描く希望や明るい未来を自分の生き方と同じだと思えるか、そしてその生き方を自分も「やる」と決めているか、それが「自分のもの」となって夢を共に実現するクルーになるということなのである。

自分から「乗る・やる」と決めるかということ、それはこの航海を最期まで遣り切るかと決めることでもある。

そしてまさにそれが「自分の生き方を決める」ことなのである。

生き方が変わらなければずっと人生はまるで客人のように、自分という船すらも乗りこなすことができずただただ漂流しているいるだけの存在になる。

この天地の間に生きる間において、自分を活かすのも自分、自分を育てるのも自分、このたった一つの自分を大切にすることは、自分の決めた生き方を優先することからが原点なのであろうと思います。

どんな仕事も、どんな役割も機能するときは何よりも自分の決意であります。

自分の心の置所ひとつで人生はがらっと変わっていくのです。

決めるというのは、自分のもの自分のことだと思えるかということなのです。

永遠の真理として、人生の主役は自分、主人公は自分なのですから。

日々は、自分の主人公である心がけ次第です。

一日一生という言葉を先日、メンターからいただきましたがその言葉の意義を味わいながら実践を楽しんでいこうと思います。

使命感

人は何かをやるとき、自信があるかないかでモノゴトを決めようとすることがある。

自分にできそうか、できそうでないかというような先に結果を考えてから行動しようとすとその方法ばかりを考えているだけで何もやっていないということがある。

そういうことを繰り返していると、結局時間切れになり自信も意欲も減退していくものである。だから、仕事でも何でも結果がでないのならその在り方というべき生き方を今すぐにでも変える必要がある。

同じ時間を使うのであれば、方法のために努力するのではなく遣り切る方に努力する方がいい。

誰でも人は何かの物事に取り組む時に、何をなすべきかというものをまず決める必要がある。なぜなら、それはやれるかどうかではなく、できそうかそうではないかではなく、それは自分が「やらねばならぬ」ことかどうかだからである。

人は面倒なこと、自分にとって不利益なこと、周囲から評価されそうにないことなどは自ら進んでやろうとはしない。方法論に目を向けていたらこれだと失敗するかもとか、これだと迷惑がかかるだの、その方法論にばかりに囚われて何も為すことはできなくなるものだと私は思う。

私の場合はよく他人からあなたは自信満々のようだと思われたり、他人から何でもできる人でしょというように言われるけれど、これは完全に間違いである。

自分は別に自信があるわけでも自信がないわけでもないし、仕事ができるわけでもできないわけでもない、ただその「使命感」でやっているからそう見えるだけであろうとも思う。

自分がやらなければ誰が遣るのだと強い決意で子ども達を見守りたい、自分がこの先の時代にツケを払わせたくない、自分が間違っていると知ってしまったことを子どもたちに嘘をついてまでやりたくない、だからこそ子ども第一主義の理念を遣り切るのだという志があるだけである。

人はその自分の生き方ともいうべき心の置所に、志を置いているか、それを立てているか、つまり使命を果たそうとしているかということは大事なことでそれ如何では同じことをしていても成果が天と地ほどの差になってしまう。

もしも使命感を持ち何が何でも遣り切るのだにと思っている人は、方法論がどうであれ関係なく勇気を出して必死に遣り切るからそれを周囲が次第に支えるようになるのである。

言い訳もいらないし、周りのせいにしなくてすむ、そして目の前のことに真剣にさえやっていれば雑音も聞こえてこない、何よりも正しい努力ができるのである。

自分に矢印を向けて自分の心が、その生き方が、何が何でも遣り切る、そしてそれが何のためなのかということに定まっているかどうかを確認することである。

誰がどういおうが、何がどうあろうが、やるのだという決意、それが使命。

一心不乱に使命感に燃えていれば、次第に何でもできるようになるし、次第に周囲は勝手にその人を認めてくるのである。別に、自信を持ちたいからやったわけでもなく、周囲に評価されたいからやっているのではない。

私が熱いのは、使命に燃えているからである。

これからも子ども達に志の大切さ、使命感を持って取り組むことなどを自分の生き方と人生の実践を通じて周囲へ感化していきたいと思います。

バージョンアップ

人は新しい価値観や、今までになかったことを得ようとするとき新たなステージとも言うべき場所へ自分を移行する必要がある。

人間的な成長と、現実的な世界の成長はリンクしていてその両面を同時にブラッシュアップするために人は自分の立ち位置を変えていく。

その感覚は、ある臨界期を超えて瞬時に抜けるというように囚われていたものから解放されるという感じでもある。

それは変わろうとして苦しみを感じているやり方だけではなく、気楽に好奇心を感じているときの方が肩の力がすとんと抜けるのと同時にブレークスルーするときもある。

または、具体的な今までとはまったく異なるアプローチを試そうとチャレンジを繰り返すことで突然ハッとして抜けることもある。

とにかく今までのやり方や在り方を一度見直すことができるかということが重要なポイントになるのである。

人間はある時を起点に、その昔の記憶を主軸に自分を変えたとか変えていないとかを語るけれど、その過去のものを基準にしていてはいつまでたっても変わることはできはしない。

昔の自分、過去の蓄積された知識などと比較して変える変えないとしたとしてもそれは過去から変わったというだけで、新しいステージに変わったということではない。

新しいステージとは、新しい力が必要なステージ、つまりは新世界の住人になるかどうかということである。今までの自分がどうであったかというよりも、まったくそういう過去を捨てて新しい自分に生まれ変わるということなのである。

生まれるとは、一度死ぬことを意味している。

それは今までの自分ではなくなるということなのであり、それは今までの自分のことを忘れてもいいと一つの生き方を卒業することを意味するのである。

人間は何度でも生まれ変わることができる、それは心があるからである。

心が新しく生まれ変わる決意をしたときから、人は第二の人生を歩むことができるのである。過去にしがみ付き、過去に囚われ、過去に生きようとすることはすべてどうしようもない過去への自我の執着なのである。

過去に生きれば、今、周りにいる人たちを大切にしなくなることにもなる。

大切なのは、今、ここでどう生きるのかという決意なのである。

人生とはすべてにおいて決意で満ちている。

過去よりも今、ここが人生の主戦場、それぞれに一度しかない人生だからこそ自分自身が納得のいく人生を歩むことが自分の今の生と周囲の生を最大限活かしていくのだ。

まだまだ、共生や貢献の意義を刷新することを楽しんでいけるように日々をバージョンアップしていこうと思います。

勇気と愛の冒険の日々

今、日本では生活を通して未来へのビジョンが描けず何かしらの閉塞感がありどこかしらの重圧感に苛まれている人が多いという。

大震災後、何かが動き出したようでもあるけれど元に戻ったようでもある。

何かを新しくするときには、もちろん意志の力がいるけれどそれを継続させない恐怖というものもある。

先に知識を得ては恐怖や不安だけを身に着け、それを乗り越える力を持っているのにそれを出す体験も少なくなれば無難にやっていくことが目標になっていたりもする。

しかし人は皆、困難を乗り越えるときにこそ、その真価が顕われるのであろうとも思うのにそれに挑まなければいつまでも変わらないのは現実である。現実の世界を変えるには、自分の何を持って変えるべきなのか。

子どもの頃にはたくさんの怖い体験をしたものである。

それは新しいことに挑戦するたびに、振り返るとぞっとするようなことをたくさんやってきた。特に私の場合は、好奇心旺盛だったので一度やろうと決めたら怖がる前に身体が動いていて気が付くと大変なところまで来てしまったと驚き怖がりながら急いで戻った記憶もたくさんある。

先に観えないものがあるとき、そこに行ってみたいという気持ちが勝ればその時に使っている自分の真の力の源は「勇気」である。

今はその勇気を出すことを忘れている人がとても多い。

何でも頭で計算をし、先にどうなるかを予測し怖がり、ビクビクしながら意気地なしになってしまっている。何かを変えようとするよりも、何かあったらどうしようかとばかりを心配し、勇気を出すことを恐れている人が増えている。

何でもそうだけれど、死ぬ気なったらやこれで最期だと思ったらと何度も言い聞かせてもそれを行動に移せないのは自分がどの力を引き出そうとしているかが理解できていないからである。

人は誰でも怖いと思っている、みんな恐怖や弱気な気持ちを持っている。
その気持ちを乗り越える勇気があるから人はみんな強くなれるのである。

逆に自信満々な人が勇気があるかといえばそうではない、そういう人も怖がりと同質のものを持っているのである。どちらも偏れば、不安から逃げたいだけであり冒険の楽しさを忘れてしまっているのである。

子どもの時のように冒険する気持ちがあったなら、健全な恐怖が健全な自信を生み、そしてそれこそが勇気の泉源なのである。

意志の力だけでは乗り越えられない、時には恐怖の力に裏打ちされて動かされることもある、しかしその両方の合わさった時にこそ誠の勇気が出てくるのである。

怖がることがいけないのではなく、自信があればいいのではない、大切なものを守るために勇気を出して変わるときにこそ誠の愛に転じるのである。

子ども達のためにも、勇気と愛を合わせて新しいことに果敢に挑んでいきたいと思います。怖いながらも飛び込みたいという気持ちがいつも心の中から突き上げてくる。

冒険の日々は、勇気と愛に満ちている。

たくさんのことから学びとり、人生の旅を楽しんで生きたい。