今、日本では生活を通して未来へのビジョンが描けず何かしらの閉塞感がありどこかしらの重圧感に苛まれている人が多いという。
大震災後、何かが動き出したようでもあるけれど元に戻ったようでもある。
何かを新しくするときには、もちろん意志の力がいるけれどそれを継続させない恐怖というものもある。
先に知識を得ては恐怖や不安だけを身に着け、それを乗り越える力を持っているのにそれを出す体験も少なくなれば無難にやっていくことが目標になっていたりもする。
しかし人は皆、困難を乗り越えるときにこそ、その真価が顕われるのであろうとも思うのにそれに挑まなければいつまでも変わらないのは現実である。現実の世界を変えるには、自分の何を持って変えるべきなのか。
子どもの頃にはたくさんの怖い体験をしたものである。
それは新しいことに挑戦するたびに、振り返るとぞっとするようなことをたくさんやってきた。特に私の場合は、好奇心旺盛だったので一度やろうと決めたら怖がる前に身体が動いていて気が付くと大変なところまで来てしまったと驚き怖がりながら急いで戻った記憶もたくさんある。
先に観えないものがあるとき、そこに行ってみたいという気持ちが勝ればその時に使っている自分の真の力の源は「勇気」である。
今はその勇気を出すことを忘れている人がとても多い。
何でも頭で計算をし、先にどうなるかを予測し怖がり、ビクビクしながら意気地なしになってしまっている。何かを変えようとするよりも、何かあったらどうしようかとばかりを心配し、勇気を出すことを恐れている人が増えている。
何でもそうだけれど、死ぬ気なったらやこれで最期だと思ったらと何度も言い聞かせてもそれを行動に移せないのは自分がどの力を引き出そうとしているかが理解できていないからである。
人は誰でも怖いと思っている、みんな恐怖や弱気な気持ちを持っている。
その気持ちを乗り越える勇気があるから人はみんな強くなれるのである。
逆に自信満々な人が勇気があるかといえばそうではない、そういう人も怖がりと同質のものを持っているのである。どちらも偏れば、不安から逃げたいだけであり冒険の楽しさを忘れてしまっているのである。
子どもの時のように冒険する気持ちがあったなら、健全な恐怖が健全な自信を生み、そしてそれこそが勇気の泉源なのである。
意志の力だけでは乗り越えられない、時には恐怖の力に裏打ちされて動かされることもある、しかしその両方の合わさった時にこそ誠の勇気が出てくるのである。
怖がることがいけないのではなく、自信があればいいのではない、大切なものを守るために勇気を出して変わるときにこそ誠の愛に転じるのである。
子ども達のためにも、勇気と愛を合わせて新しいことに果敢に挑んでいきたいと思います。怖いながらも飛び込みたいという気持ちがいつも心の中から突き上げてくる。
冒険の日々は、勇気と愛に満ちている。
たくさんのことから学びとり、人生の旅を楽しんで生きたい。