思想を磨き上げていくということと、現実の現場を善くしていくということは分かれてはいない。思いとして、如何に自分がそうありたいとしていても実際の現実がそのようになっているでなければ机上の空論ということになる。
思っていることとカタチにしていくことと、カタチになっているものをより思っていくということは同じことであろうとも思う。
その間にこそ、真実が存在しているのであろうとも思う。
昨日のブログの、分かると悟るの違いと同じく、ここでも思っていると実践することの違いと同じくすべての出来事はやっていなければ意味をなさないのである。
思ってばかりでやらなければ、何も顕われてはこない。
大事なことは常に現実の現場の出来事の中での実践を通じてしか、自分を本当の意味で修めることはできないということである。
動きながら考え、考えながら動く、その間に何を思い何を行い何を磨き何を得るかということが実践哲学なのであろうとも思う。
王陽明に、「事上練磨」がある。
「思想というものは時に現実から遊離して一人歩きをし易いものであるが、王陽明はそれを戒め、本当の思想・理念というものは決して日々の生活から遊離するものではなく、何ら変わらぬ日常において自らの良知を致す事こそが、真実の意味における学問であり自己修養なのだと説いた。」
これは、今を生き切る上での具体的な実践論である。
今が真剣であるかどうか、今に打ち込んでいるかどうか、今から逃げずにいるかどうか、今、まさに此処にやるべきことを自分の問題だと思い打ち込むかどうかにその真実があるのであろうと思います。
思想ばかりでやらないよりは、思想を置いてでも遣るほうがいい。
それは今を遣り切るかどうかのモノサシなのである。
時は今、今は時、今生に常日頃思っていることを実践してこそ事上練磨である。
言い訳や言い逃れ、責任転嫁のために思想を使ってしまっては良知まで到達できずに自分の心をより曇らせてしまうものである。今、やらないといけない仕事や何よりも自分の社会の中での役割、会社での役目などを真摯に愛情を籠めて一つひとつ為していくことこそが優先すべきことである。
優先順位を決めることはこの今に大切なものを守る順である。
思いやりとは実践することである。
思いやりの実践を心を籠めて形にしていこうと思います。