人は感情とどう付き合うかで自分をコントロールしていくことができる。感受性が豊かな人というのは、様々なことを感受する力が誰よりも鋭い。
その持って生まれた個性を活かすには、その感性とそのままの現実のバランスを如何に保つかということが必要になる。
先日、あるメンターから自我と真我という話を伺った。
これは、自我だけが本当の自分ではないということである。
その感情の自我ではなく、仏性とも言える本来の自我の両輪を融和してこその真我というものであるというような感じであろうか。
自分の人生というものを振り返る時、如何に感情というものに左右され様々な判断をしてきたかということがよく分かる。
感情に左右される中での判断では、自分というものが本来の姿とは分かれてしまうから様々な無理がでてくる。その無理をいつも通していたら、正しい努力や正しい判断、正しい感覚が持てなくなり感情が自分を支配してしまうこともある。
自分の感情がどう思うのか、その時、自分の心はどう感じているのか、自分の主が心であるのか、感情であるのか、どちらも自分なのだけれど感情を心の内に容れているからこそ本当の自分のままに素直でいることができるのであろうとも思う。
人は生きていく上で、自分の感情を押し殺すためにこうしなければならないや、こうすべきだと自分を偽り正直でいることよりも自分が周囲に迷惑をかけないでいいようにと強迫観念を持ってしまうものである。
それを一人二人と増えていけばいくほどに、次第に世の中がおかしな人間関係を増やし社会を不安にしていくのであろうとも思う。
だからといって、無感情人間になればいいということではない。
自分と上手に付き合っていくということであり、自然体であることである。
人間が無理をせずにそういう自然体でいるとはどういうことか、その感情で歪んだ世界だけで物を観るのではなく、自分のあるがままの心、色々な感情を持っている自分を丸ごと受け容れ、丸ごと相手も同じように認めるときにこそ正直な自分でいられるのだと思います。
自分という船をどう乗りこなしていくのか、人間は未熟だからこそ様々な出来事や人間関係からその付き合いを学びとっていくのだと思います。日々はそういう学びとっていくことができる唯一の充実の日々であるのだと感じます。
子どもたちのあの感情豊かに調和する姿を見ながら、保育するとは、真の大人になるとはどういうことかというのを体験します。社会で生きていくのならいつまでも幼稚な姿のままで変わらないというのはおかしなな話です。
貢献と共生が、子ども達一人一人の自分の立った一度きりのその命を正しく使っていけるよう、大人たち自らが社会を構築しながら自分というものとの付き合いを学び、その豊かな一体感を味わいながら楽むことだと思います。