今の日本の身の回りを観察すると、元々日本の根っこは何処にあるのかが分からなくなってきている感じもする。
西洋のものの新しい技術をそのままに取り入れ、便利を追及していく中で西洋の歪んだ歩みを踏襲し続けていけばアジアの未来や世界の将来について自分たち日本人がどんな役割を果たすかなども次第に考えることもしなくなっていくものだ。
急激な近代化にあわせて、様々なものを取り入れていく中でその土台に日本人としての魂が入っていなければそれは単に表面上のカタチを持ち込んだだけでしかない。カタチはすぐに人間の欲に負けて次第にそのものが分からなくなっていくものだ。
どんな道具も、その使い手の心が入ってくるのだから使い手が使いこなせないようなものを創ってしまえばその道具により滅びるには太古の昔から繰り返されている負の遺産である。
そういうカタチを外来のものをそのままに取り込まれてしまうのは危険であるのだ。簡単便利を追求し、大量生産大量消費を優先するために一斉画一に同じものを仕込まれていたらそういうものの原点や起点すらも考えることができなくなってしまうのであろうと私は思う。
元来、先に教え込まなければ人間は自分の根がどこにあるのかを自然に考えだすものである。例えば、自分がなぜ生まれてきたのかや、死んだらどうなるのかなども早い時期から考えるものと同じである。
その他にも日本人の独自性を重んじ、その自分たちの文化や誇りを優先する中で、外国の文化などに触れたりたくさんの事物の存在を学んだりすれば自分がどう生きるかという生き方にまで入り込んでくるものである。
日本語ができないのに英語を覚えるようなもので、そんな英語は世界では役に立たないのである。同じく、日本ということを知らずに世界に出てもそれでは自分は一体どこに根があるのか分からなくなるだけである。
そういう根本的な精神や魂との対話のようなものを戦後は極力避けられ奪われた古今からの大切な国のカタチというビジョンが今こそもう一度復興に際して必要ではないかとも私は思う。
震災後復興を思うとき、今までの生き方を考え直す人が増え、在り方について見直す人たちも増えた。その一方で、相変わらず何も変わらないで今まで通りに何も考えないでグローバリゼーションの波に呑まれて何も決めないでいる人たちもたくさんいる。
自分というものがない人たちが、他人のせいにして世の中をおかしていくのである。だからこそ、一人一人が教育や保育により生き方を学び自立することが必要なのである。
独自ということや、独学、独立という、本来の自分たち一人一人の自覚や意識が目覚めず、周りに合わせて、周りのせいにして依存していこうとする気持ちに流されてしまっている。
自分がどうありたいか、もっと自分を欺かず正直に生きられる社会を用意することこそが子どもたちの未来には必要であると心底実感する日々である。
何でも画一化していけば、もうそこは人間や命が住まうことのできない荒野や砂漠が広がるだけである。
違いを認め合い、異なることを許し合い、楽しく明るく清らかに生きてきた和の精神の礎に回帰し、もう一度、和魂によって新しく創造する国のビジョンを描き直していきたい。
まずは自分が描く国に形を体現できるよう、社業を通じて現実的に理想を追いながら意識改革を繰り返し学び直していこうと思います。