モノゴトを判断するとき、その優先順位がどうなっているかでその判断結果は変わってくる。
何かの自分の感情や欲望が判断に入れば、それは正しい判断とはいえずどこか自他にとって都合が良いようにしてしまっていることもある。
特にその判断が全体へ大きな影響を与えるとしたら、より正しくブレナイ判断をしていく必要がある。誰しも、人間は皆自分都合で判断の枠の中に自分の立場などを入れるのだから余計に自分のエゴが入らないところで色々なところを決めていく必要がある。
それを正していくのに理念がある。
理念は、本来どうあるべきか、なぜそうするのかという根本的な問いに対して定めたものであり何かの組織や全体のことを考えて決めたものである。
何か悩んだ時や困ったときにこそ、どこから考えてどこに照らして行うかはすべてに理念を主軸にすることがもっとも正しい判断に近づくのである。
私たち国民もそうだし、社員もそう、何かの組織や大きな社会に属しているなら何を基準に自分が生きていくか、判断すればいいか、そういうものを自立して行うにはその本となる判断基準というものが必要になる。
そういうものを何処におけばいいか、それを目先の事象でいちいち判断していたら目標に向かって確固とした方針を理解し自分を活かし積み上げていくことができなくなるものである。
だからこそ理念を設け、理念から考えていけば次第に自分の行為行動は全体にとってもっとも最善に近づいていくのである。利己的な人や、自分の保身を潜在的に持っている人ほど、正論を並び立てたがるけれど本来の理念はどこにいたのだろうかと思える発言をする人が多い。
それがないのに議論しても積み上がることはなく、ただただ消えていく虚しいものになるのである。
今の日本には、古代から残っている本来の同源同根の思想が消えかかっている。それを復興し、神代から絶え間なく続いている道を探し出しそれを明らかにして永続していくことこそがかんながらの道でもある。
そのかんながらの理念の元、私たちは和合と和魂で日々を実践していくことではじめてこの世界の中での自分の本分を使い切ることができるのである。
理念を出していくのは、必ずその人その人の最も深い場所に同じ根があることを確信しているからです。忘れかけたものを取り戻すことが刷り込みを取り除くことでもあります。
たくさんついた垢を洗い清め、積もり積もった落ち葉を掃わくことで道は次第に明らかになるものです。
理念に対してどれだけ素直に純粋に取り組むか、これが理屈を超えた人の道であろうとも思います。これからも子どもたちのため、これから生を受け全うするであろう子々孫々のため今、やるべきことに専念しようと思います。