黙して語る

このブログでもそうだけれど、間というものを捉えるのに言葉を使うということは本来は矛盾がある。

言葉だけで物事は伝わらないのは、言葉というものにはかつて渾然一体な姿が伴っていたものだからでもある。本来、言葉というものは考えていることを伝達するために生み出したものではなくそもそも考えと動きが一体になったときに自然に発していたものである。

例えば、動物たちが色々な鳴き声を発するように何かの心意を感じるままに発するのに似ていてそれは言語にはならないものを発することでちょうど中間を捉えているのである。

中間を捉えるというのは、両極ではないことを意味していて例えば言葉で言えば明るい暗いではなく明暗入り混じるところを感知しているようなもので他にも例えれば、寒い暖かいではなく、寒暖入り混じっていることが感知できるところを言葉では語れないのと同じことなのです。つまりは複雑に矛盾に満ちていることを感知しているのが中間を捉えているということになるのです。

昔から「黙して語らず」、「沈黙は金なり」などと言いますが、あれも同じく語らないことはそういう中間を語ることになっているのです。中間とは、自然のことをいい、あの山や川、海のように言葉にはしないけれど発している音のようなもの、つまりはその心意を顕しているものを感じることができるのです。

自然の言葉を受け取れるのは、言葉にしないからとも言えます。
そして自然の言葉を感受し発信することで黙するほどに語るからです。

私は今年もブログでたくさんのことを掘り下げていきましたが、今年最後にまとめとして書き記すのは黙して語らないことの大切さ、言い換えれば言葉にしないということが何よりも心意を理解するのには大切なことですということでまとめたいと思います。

世の中にはたくさんの矛盾があります、それはすべてのものは入り混じって存在しているからです。まるで、朝もやの霧の中に一筋の太陽の光が差し込んで、揺ら揺らと風に流れて雫になっていくように、すべてのものは黙して語っているのです。

静かであることも、動いていくことも、すべては黙して語り続けています。

私たちは自然から学び、本来の人間性というものを思い出していく必要があるのだと思います。その時、あの山々の聳え立つ姿に私たちがかつて何を先生にして学んだかということを回帰していくことになるのです。

今年もたくさんの黙して語らない心意を言霊のままに味わうことができました。
引き続き、子ども心のままにかんながらの道を歩んでいきます。

有難うございました。

自己管理と自律

先日、仕事は自己管理であることを深める機会があった。

正確には「自律」ということであろうと思うけれど、自らのことを自らで管理できるかというのは人生を自ら納得していくことのためにもとても大切なことであると私は思う。

例えば、ちょっと嫌なことでもそれを自らで律して実行することができる人はいつもちゃんと流されずに正しく日々を積み上げていくことができる。そうではなく、すぐに嫌なことから逃げて避けて通ろうとばかり考えている人は、いつも自己管理ができず流されてしまうから日々がまた積み上がることが亡くなるです。

この日々の積み上げというものはとても大切なことで、人生はこの日々そのものといってもいいのだからどのように過ごしたか、またはどのように決めたことを遣り続けたかということは自分丸ごとの人生をどのようにするのかを自らでコントロールしているかどうかにもよるのだと思います。

自分をコントロールする力というのは、幼少期から身に着くもので大人になってもそれができない人はいつもそのことで人生が好転せずに苦労しています。小さなことを遣り続けるというのは、続けている間が決意が維持できているのであり、継続するということそのものを力であるというのだと思います。

本物は続くという言葉もありますが、本気、本心、本音、本格、本当、この本がつくのは自らを欺かず自らを偽らない正直で素直なところでそう本意であるから可能になるのだと思います。

この自分というものをどう慎むのかというのは、人生を自らで自己管理するために必要なのだと思います。誰かのせいにして、何かのせいにして、いつも言い訳ができるところで何かをやっていることほど寂しい人生はありません。

大切なことは、誰にも言い訳をしなくてもいいくらい自らを善く知り自らと素直に対話できていることだと思います。それは感情と心との調和が保たれているとも言いかえることもできます。つまり何を自己管理や自律と定義するかとうのは、全体が善くなるために自分の感情と心に素直に折り合いをつけていくようなことを言うのだと私は思います。

人は皆外部の影響を色濃く受けてしまうのだからこの自己管理や自律ということを幼いころの環境を通して子どもに身につけさせてあげることが思いやりであるのだと思います。幼いころの苦労は買ってでもしろではないですが、環境に言い訳しない人になるということはそれだけ大事なことなのだと今では思います。そして自然の傍でそういう全体との繫がりを学んでいくことで人は自分勝手では生きられないことを学びこむのだと思います。

特に今のような不自然な中に住まうのだから、自然を如何に修めるかというのは新しく学びの項目に追加してもいいほどではないかとも思っています。

引き続き都会と行き来する中でより善く自然から学び、その厳しさの中でどのように日々を積み重ねているかなどもう一度自然から多くのものを学び直していきたいと思います。

善転の覚悟

昨日は、今年一年間の振り返りを社内の皆で行いました。

今年は何より大震災を体験したことを大きく、あの当時の心の感覚は一生涯忘れることはないだろうとも思います。

人生の中で大小含めて災難苦難に遭うことはたくさんあります。
そしてそれはそのことから必ず犠牲者が発生することを意味しています。

決して無事では済まないことも多々ある中で遭遇してしまいなぜそのようなことが起きたのかを考えていると、それぞれにそれをどういうものに意味づけていくかはその人たち自身のその後の生き方に繋がっているのだとも思います。

そう考えると、禍転じるというのは今までの間違いに気づくことをいいます。
それは言い換えれば、私たちが何かおかしな間違いを自分が犯してしまっているからそれではいけないと目に見える出来事を通して伝えてくださるのだとも思います。

人は当たり前すぎるものには次第に鈍感になっていきます、昔は善くないと徹底していたことも小さなこれぐらいはという安易な気の緩みから次第にどんどん無法のようになってしまうものなのです。

そういうことがないようにと先祖から語り継がれてきたものを大切にしていくために、何度でも私たちは日々の様々な事件に遭遇する中で気づきと学びというものを得ているのだと思います。

そして気づいたらすぐに変われるかどうかで、その学びが本物であったかどうかということを試されていくのだとも思います。変わるというのはすぐに変わっても、長い時間をかけてその意志が本物に醸成されていきます。

生き方や働き方も同じく、そういうことから明確になっていくものだとも思います。

私たちはこの大震災を体験し、そしてまだ復興とは程遠い現実的な苦難の最中の方々のためにも如何に自らが立ち上がるか、つまりは無駄にはしないと決意しかたき討ちをするのかという必ず善いことにする覚悟がこれから問われるのだと思います。

もちろん、救済の方法は多々ありますが本当に正しい復興とは自らの生き方を変えることで示すことなのだと私は思います。同じ仕事をしていても、働き方が同じではいけないのです。それに同じ日々を暮していても、今までと同じではいけないのです。犠牲から学んだことを、忘れないためにも心に決めたものを持ちながら今まで以上により善くしてみせるという強い動機が必要なのだと私は思います。

目には観えないだけで犠牲になっているものたちはこの瞬間もたくさんいるのです。

日々は何気なく過ぎては行きますが、鈍感にならないように脚下の実践に心を籠めて歩みを強めていくように来年もより一層の覚悟していこうと思います。

再直

新しく何かをはじめるということは、今までのことから考えるのではなく一度それをゼロベースに戻して自らで考え直すというプロセスが必要になる。

どこか自分が正しいと思い込んでいたり、自分がやってきたことが正しいはずだと無意識に縛られていると一向にその刷り込みを取り除くことができなくなりそのものの本質を捉えていくことができなくなるものです。

本質的に生まれ変わるには、様々なものを最初から再定義していく必要があるのです。

それは、例えば何処からやればいいかと言えばまず自分自身からはじめていくものでもあります。自分がどうしていくのか、どうあるのか、何をするのか、どんな役割なのか、その全てを今までと一変して新しい存在として自らが再定義できるかということでもあるのです。

この再びという字、再会、再考、再現、再発などの意味は「もう一度最初から」ということなのです。

すべてを最初からやり直すというと、何だかとても悪いイメージを持っている場合が多いのですがそれは今までやってきた苦労が報われないからや、今までの時間をかけたことが無駄になると思ってしまうからであろうとも思います。

しかしそれは本当にそうでしょうか、実際はそうではありません。
単に自分を変えたくないからなのです。
せっかく慣れ親しんだ自分のやり方を変えようとは思えていないのです。

子どもの頃、何でも挑戦してやっていくとき何度も何度も失敗して、その都度、「最初から」やり直して次第に実現できるようにになったのではないでしょうか。それは絵を描くにしても、物を作るにしても、何かをできるようにするのにも、何度も繰り返し「最初から」やり直さなかっでしょうか。

これがちょっと経験を積んでいくと、めんどくさいことを覚え、知識をつけることで楽を覚え、何かと今の自分のスタイルを守りながらその中でできることだけをやろうと失敗を恐れて窮屈になってしまうものであろうとも思います。しかしそんな風に、最初からではなく途中である今のままで少し努力をなどと過去に固執すればいつまでも何が間違っているのか、どうしていけば改善できるのかなども分かることはないのです。

この最初からやり直すことは生死と同じくとても意味があるのです。
そうやって人は何度も何度も生まれ変わる中で挑戦して、日々に新しくなっていくのだと思います。

何でもそうですがこの学び直し、考え直し、見直し、その全てはちゃんと「直し」になっているか、それは再出発や再定義ということをやろうとしているかという自分の覚悟が何より大切なのです。

今は、断捨離が流行っていますが時代の節目や変化の大きな中で自らがそういうことができなければ変化に取り残されてしまうのです。その時、捨てられないのは今までの自分に遣り方に固執していることがほとんどなのです。今までの遣り方を捨てるには、最初からやり直すことがいいのです、それはもう一度ゼロベースからリセットし最初からもう一度どこかに不具合があるのではないかと注意深くニュートラルな状態のままに取り組んでいくことだと思います。

その際、きっとまた今までと同じ長い時間がかかると思ってしまいがちですがそうではありません、やればやるほど短くなってくるしさらに質も上がっていくのです、そして新しい形を生み出すことができ新しい遣り方や新しい自分に自信が持てるようになるのです。

子ども達が諦めずに何度も挑戦しているように、私たちも挑戦していかなければなりません、もう善くないと気づいたことに対して諦めてはいけないのです。

再挑戦や再出発とは、挑戦しなさいという天の啓示なのだと私は思っています。
子ども達のためにも、新しい学びをして少しでも多くのものを譲り渡していければと思っています。

伝統

人は世代を通して強くなっていくものである。

先代が創りあげた中で足りなかったものを次代が刷新し、そしてまたその次代がさらにバージョンアップしていくように参代にかけて学び続けて一つを完成させていくようにも思う。

自分で体験していく中でしか気づけないというのは、繋がりの中で継承していくからであろうと思う。元々、一つのことを為すにはかなりの長い時間がかかり父親譲りのところ、母親譲りのところ、祖父譲り、祖母譲りなどというように譲られている自分が存在している中で執り行われるのである。

その譲られているというのは、強さも弱さも同時に譲られているのでありそれを次代が引継ぎそれを進歩躍進していくことで伝統が保たれているのであろうと思う。

伝統とはありのままの善悪渾然一体となったものをまるごとそのままに譲られたということなのである。

それをどう自分が体験し、正しく理解しそれを形にしていくかというのはその人の一生涯により実験されていくのだと思う、そしてその実験された記憶がまた種に凝縮され次代へと譲り渡していくというのが生命の繫がりであろうとも思います。

自分の代を如何に真摯に全うするかというのは、その次代にそれが受け渡されるという責任を感じるところから生まれるのだとも思います。今、自分を思うと様々なものが譲られていることに気づけるものです、それがトラウマであったり幸せであったり、または苦悩であったり、感動や感情であったり、心も体もそのすべての真実の形が長い時間をかけて形成されていることが現実としてあるのです。

自分が今生きる中で今までの偉大な繫がりの中にいてそしてこの先もずっと続いていくのだろうということを自覚することは、今の自分を丸ごと受け容れることでもあるのです。

今の自分が丸ごと受け容れられれば、自らで体験したことで気づいたことはすぐに学び、すぐに改善していくしかなく、そうやって子々孫々が同じ失敗をしなくてもいいように配慮していくことができるようになるのだと思います。同じ失敗をしてほしいと思う親はいないと思います、その失敗を自分が何とか乗り越えて新しい次代になってほしいと願うのが本心であろうと思います。

歴史を正しく理解し、歴史を学び、今の自分の在る有難さを感じるというのは滾々と流れている生命の伝統を自覚することなのだと思います。日本は、神話の時代から天皇がいてその継承したものを私たちは眼にも見えることができるというのは本当に有難い日本の伝統だと感じます。

しっかりと自分の目と耳と手と体で実体験したものを譲り渡せるよう真摯に自らの役割を果たしていきたいと思います。

体得すること

時代が変化し価値観が多様化する時代というのは、知らないことが増えていくということでもある。それは言い換えれば昔は知っているつもりだったものが時代の変化と多様化によりその定義が異なって本質からいつの間にかズレて間違えになっていくということでもある。

特に、時代が形成した誰かによって意図的に強いられた価値観が正しいことになってしまっているとそういうものに気づくのには大変な時間がかかるものでもある。目から鱗が取れるような体験がなければ一生涯気づかないなんていうことも往々にして起きるのである。

例えば、教育とは何か、社員とは何か、健康とは何か、食べるとは何か、遊ぶとは何か、そういうひとつひとつの質問をその人に投げかけていくだけでもその人がどの時代の価値観のままにそれを定義しているかがすぐに分かる。

新しい世代や、刷り込みのない人は、それを常に自らの頭で考え抜くことで自らで明確に本質的な定義を持っているものである。しかし今やITを使った情報化社会で安易に知識をすぐに得ることができるから自分がまるでそれを知っているかのように錯覚し、実体験からの体得しようとすることを怠り、本質が分からないままで横滑りする人が増えているのである。

学校の勉強と同じく、知ってはいても分からないという愚をおかしていつまでも知ったかぶっているだけでそれ風に見せるようなことがまるで当たり前であるような風潮さえもある。知っている人が偉いとなったら、それは誰でもすぐにちょっと知識と暗記ができれば偉い人になってしまう。そんなはずはあるわけないのです、そういうことを当たり前にしているからいつまでたっても知らないことを知ろうともしないでただ闇雲にズレていることに気づかないままになるのです。

うまくいかないのは、知ることで終わらせているからであり知ろうとし続けて体得するまでやってみようとしないからです。知ればやらなくていいことが前提で、何かを自らの頭で考えることなどはできません。そういう楽して何かを得たような高揚感は、まるで麻薬中毒のようなものと同じなのです。

知らないというのは、体験しようと思うことであり、体験を通じて数々の失敗から自らで考え抜くことで人ははじめてその意味が本当は違っていたこと、知らなかったことに自らの理解で本質に気づくのだと思います。

他人から又聞きしたものをきっとこうだろうと鵜呑みにするから刷り込みにやられてしまうのです。体験してもいないことを知識だけで得ようとしますが、そんな楽な方法では体得することなど誰にもできないのです。

教えるということはとても難しいことで、単に知識などの頭では理解できないことを教えなければなりません。昔の職人さんや師弟関係は、現場を一緒に共有しその中で伝授したり以心伝心に理解を促したりしながら本来の一番理解しなければならない本質や実相、その仕事のコツとも言える地味なことをすべて体に教え込んできたのだと思います。

またそれが学ぶ事だということがはっきりとあったのだと思います。

しかし今は、何でも言葉だけや知識だけで詰め込んで人を動かしてそれっぽくしてきたから本質を自らで掴もうとはせず頭ばかりを働かせて身体を動かさず智慧も働かないということになってしまい、まるで知識中毒になってしまっている人たちも増えているのです。

知識を得ることは、やってみたいことがあったり、やることがあるから参考にするだけであってそれは原則や真理の学び、言い換えば自然との出逢いのために行っているとも私は定義しています。しかしそれを単に楽をしたいことが前提でやるというのはいつまでも知らないことに気づくことがないことを意味しているのは、森という説明は知識でできるけれど、森に入って森を理解することがないということと同じことなのです。そんなのは、まず森に行き、森から学べばいいのです。森に行く前に知ろうとするのは、自分の体験をショートカットして楽をしたいところからきているのだと考えればいいのだと思います。

人は失敗を通して学んでいくし、分からないからこそ知ろうと挑戦するのだと思います。そして真の楽しみとはそういう体験していく中で充実感とともに得られるのだと思います。

多様な価値観と変化の時代は、常に自らの体験で本来の意味を学び直す必要があるのです。本質を自らで掴む力が今、一番衰えてきています。だからこそ子ども達にももっと体験できるように見守り、ゆっくりその本人の実体験を深く味わって本質を自ら掴んでいけるようなゆとりのある時間を用意してあげることだと思います。

自分の体験して掴んでいないものを安易に分かった気にならないことは学問の本義であろうと思います。まずは身近なところからその大切さを忘れないためにも、日々に新しいことにチャレンジして実践を楽しんでいこうと思います。

今立っているところ

司馬遼太郎の「坂の上の雲」があり、3年間がかりでNHKから放映されいよいよ本日最終回を迎える。よく考えると3年連続でこういう映像を観てきたことはなく、一緒に番組を創っているかのような錯覚もあるのも面白い体験になった。

何か一つのことを長い時間かけて取り組むというのは、その間に様々なドラマを共有するということになる。その中で出逢いと別れがあり学び成長しながら様々なことを体験して今というものが存在しているのであろうとも思う。

この今があるのは、昔の出来事の御蔭でありその昔の体験が今に生きているのだから今生きているものたちの責任としてこの今はどうするかこの今、此処に懸かっているといってもいいのであろうとも思う。

日露戦争を題材にして色々なシーンが描かれているけれど、戦争というものは美化できるものではなく悲惨極まりないものであるのはよくわかる。私の祖父も戦争体験者であったけれど幼いころに戦争の話を聴いても何一つ答えてはくれなかった。ただ、寡黙に厳粛な顔をするだけで何も語ってもくれなかった。ただ、もう一度シナに行きたいといっていたのが印象的だった。

戦争というものは異常なことで、人が人を殺めるということが正しいことだとさえ錯覚してしまう。教育により、またそういう思想を植え付けることにより人がどんどん死んでいくというのは悲しいことです。

もう二度と戦争はしてはいけない、そうしないでいい世界を創ることの大切さを感じます。

権力というもの、強大な力を持つということはそれが心で制御できないと結局は人間により人災を及ぼすことは簡単に理解できる。 やはり心の成熟が先であろうとも思うけれど、そのためには数々の失敗から学んで成長していくことしかないと改めて感じる。地球の生長も生命の生長もそれは学び続けていくなかで実体験していくしかないのであるからその時代時代に生まれたものたちはそれを善く理解しそれを深く学んでいくしかないのである。

そして戦争をはじめ命を失っていく多くの犠牲の上に我々が今立っているところを観ると何でもそう簡単に諦めてはいけないし、自分の都合でいい加減に冷めたことを言ってはいけないのは誰でも自覚できるはずです。何が何でも先の人たちの努力を無駄にはしないという残ったものたちの意志とそのために散っていた人たちの意志を守り抜くことが今生きている人たちの生きる証であろうとも思います。

それぞれに役割を果たしていくというのはそれぞれが今を生き切ることなのだと思います。
そこに自ずから使命というものの意味を感じることができるのだと思います。

多くの人たちが散っていった命は、私たち子どもたちのために使われたのです。
だとしたら、今の人たちがより善い国にしていくことをやっていかなければなりません。

もう一度歴史から私たちは自分の生き方を問い直していく時期にきたのだと思います。
このタイミングで色々なことが動くことに感謝しています。
まずは自分の身の周りから足下から見つめ直していこうと思います。

 

世代交代

すべての生命には世代交代というものがある。それは時代が変わり、新しいものが生まれるのは流れが循環する中で時も一巡して新しく環境が変化していくことを意味している。

場所が同じところであっても、時間が経てば廻り回って戻ってきたときには少し変わっているのだから、時とともに新しいものに対応できるように歪をなくすためにも生死があり、古きものが新しいものになることで調整していくのであろうとも思う。

歴史を観ても同じく、時代の変わり目は節目というものは全てにおいて世代が切り替わっているのであり、昔の世代が終焉を迎え、新しい世代の時代になっていくから国も変わり、倫理観も変わり、ありとあらゆるものが変わってしまうのであろうとも思う。

しかしその時代の節目には、自分を否定されたと思ってしまう前の世代が必死に自分たちの遣り方をいつまでも固守しようとし頑固に頑張り続けるから新しい世代にスムーズに切り替わることができず、いつもトラブルを起こしてしまう。新世代の人たちは、自分たちを信じてもらえなくなることで自由にさせてはもらえず教育や過去の価値観の押し付けや洗脳等によっていつまでも先の世代での遣り方に従い維持していこうとなってしまうのであろうとも思う。

特に先の世代の時代は必要とされて認められていた価値観を新しいものたちから否定されることほど古い世代にとっては辛いものはない。その時の頑張りがあったからこそ今があるというのに、今の世代にそれが間違いだったと言われることは自分の生い立ちを否定されたかのように勘違いしてしまうものだからである。

しかしそれをもう一度よく深く洞察してみると本当は認識違いで新世代は旧世代を決して否定しているのではなく、時代が単に変わったのだと伝えているだけなのに対して、旧世代が自分の役割がまだまだ終わっていないと自分の居場所に固執しているだけという構図になっていることが多い。

特に親子関係でもそうだし、会社でも役員交代でもそうだけれど自分がいつまでもそこに居座っていたら後に来る人たちはどうしても自分たちのやりたいことを自由に取り組もうとはできなくなってしまうものなのです。

本来は、新世代は先代が築き上げてきたものを正しく壊し正しく作り直すという役割をもらっているのだからもっと信頼して挑戦させてあげることを繰り返すことで畢竟、それぞれの世代の役割を正しく果たすことができるのだろうとも思います。

それをやろうとする新世代のことを思えば、新世代が好きなようにしていくことを受け容れることが自分たちがやってきたことをちゃんと認めていくことになるのであろうとも思います。自分が今までやってきたらこそ、ここで新しく壊す必要があるということを受け容れるということなのです。

自分がやってきたことを正しく役割交代することが、世代交代の意味なのです。

それはまるで子どもが成人になるまでに大人が変な教育で自分たちの価値観を一斉に押し付けて刷り込もうとするのではなく、子ども達の世代なのだから子ども達の自由にさせてあげよう、そしてそれを温かく見守ろうとするのに似ているのです。

私の定義では、もう子どもが大人になったら世代交代の時期であると思っています。

いつまでも大人が社会に居座らないで、子ども達が子ども達の社会を子ども時代に創っていくのを見守る役割になったのだと私は思っています。

子どもの自由を奪う権利は大人にはなく、当然その世代を謳歌した人たちはもうすぐに譲り渡す準備をするべきであろうとも思います。子ども時代が奪われたからと子ども時代を取り返そうとするのではなく、そういう思いをしなくていいように子ども時代を与えてあげればいいのです。

時代はこれからも永遠に変化し続けていきます、これは誰にも止められません、止めれば自然の摂理で無理がきて崩壊するだけです。それを考えれば、子ども達、その新世代にこの世界を任せていくことの方がより無理なく自然に役割を果たし自分たちの命の繋がりも譲っていくことになると思います。

いつまでも自分の居場所をばかりを求めるのではなく、次に訪れるものたちのために席を空けておくこと、世代交代は役割交代なのです。

私自身、今の子ども達の新世代のために早々に子どもを見守る側に正しく入っていこうと思います。

 

子どもの夢

子ども第一主義を掲げ歩んでいく中で、自分が如何に子ども達と関わっているかを考えることがある。子どものことが大好きで、子どもの可能性を信じている自分が今の仕事との出逢いを引き寄せ新しくしていく世代への譲り手になっていこうと決めたことがからがはじまりでもあった。

会社を創業したとき、子ども第一主義を決めたのは子どもの夢を失わせたくなかったこと今の大人たちの苦しみや悲しみを感じ切ったことでこのままではいけないと思い、子どもの憧れる会社にしようと思ったことがキッカケだったように思う。

しかし実際は、会社というものに囚われ周囲の価値観の中で揉まれだんだん小さくまとまってく自分に本来の自分の姿を見失いながらそれでも根っこは土中へはり続けた御蔭で今の自分があることを思い出すと数多くの出逢いの中で信念が導いてきたことへの感謝に満ちます。

人は志高く一生懸命に真心を籠めて生きれば、自然に道が開けていくようにも思います。

子ども達は今、何を夢にして生きるのでしょうか。

弁護士になりたいや司法書士になりたい、サッカー選手になりたいなど、夢ではなくその夢の手段を夢だと思いこまされ資格を取得したりいい大学にいけば夢が叶うとさえ思いこまされ、実際の夢とはかけはなれた生活を送ってしまっている人もいるのではないでしょうか。

子どもの頃の夢とは、誰も死ななくていいとか、優しい人たちがたくさんいるくににするとか、たくさんの人をすくいたいとか、世界をへいわにするとか、そんなのばかりだったのを思い出しました。

私も子どもの頃、もっと自由に目的や目標に向かってやってみたいことをやっていたように思います。子どもながらにやってみたことが、大変な思いも一杯しましたが今ではその思い出とワクワク感が新しく挑戦したいと思う自分の最大のモチベーションにもなっているのです。

子どもの頃に自由にやってみたいことをやらせてあげるということは、それ自体が夢を探す旅であり、夢を発見していく道程になっていくのだと思います。大人は何かがあれば、すぐにダメだとか無理だとか否定し、すぐに手段ばかりや方法論ばかりを子どもたちに考えさせることを夢を奪っていきますがそんなことをしていいのでしょうか?

そうしていることで自分自身の夢すらも見失ってしまうのではないでしょうか?
本当は、自分にもやってみたいものがたくさんあるのではないでしょうか?

それをもっと堂々と子どもたちの前でやっていけばいいのだと思います、そしてそれを堂々と語り、夢はすぐに持てる事、今の自分が夢であることを示してあげればいいのだと思います。

学校教育で教えているのはあくまで手段や方法であり、その夢は子ども達が自然にやってみたいことややりたいことの中にあるのです。それをどう保障し見守るかが本来の教育者の役割ではないでしょうか?

一体、どうしたのだと思ってしまうような環境がある中で今の自分の使命がはっきりしてくるのは子ども第一主義だからであろうと思います。もう時代は変わり、古い世代はどうあるべきか皆で考えた方がいいと思います。この閉塞感を生み出しているのは一体だれか、それを大人は思うことだと思います。

人は役割があるのだから、新しい時代は新しい世代が切り開いていくように譲っていくことが今の大人たちの真の役割であるのです。もう固執して居心地がいいところにいつまでもしがみ付かないようにしていけばいいのです。

あるがままの子ども達に地球の未来と私たちの夢を任せていくことなのです。

私自身、子ども心に戻ればまだまだやりたいことはたくさんあるし、大人になった子ども心ではやりたいことを絞り込まないといけないし、色々とありますが最も大切なことは夢を持ち続けていることだと確信します。

人々の真の夢を乗せて、新しいステージへと向かっていこうと思います。

自信の本質

ここ数日、とても豊かなインスピレーションを感じることができる。

冬の透明な感性を受けて、より磨かれていく冷気に身も心も澄ませていくことできる。
白銀の世界は、とても静寂で生きているものをはっきりと浮き上がらせてくる。

生きていれば、様々な風景と出会いその中で自分の心が実っていくのを感じることがある。生まれてきたことが幸せだと感じるのは、自然の風景に触れて変わっていくときである。

自分が変わっていくとき、自分の心に出逢うのだろうと思います。
人は心の風景を観ているのだと思います。
目を閉じ確かに存在しているその心の原風景が私たちを素のままに戻していくのです。

そして世界には、様々な風土の中で自分らしくその命を輝かせているものがある。
またその命を必要としている周囲も確かに在る。

そういう思いやりや優しさの中で、当たり前だったことがはじめて分かるのだと思います。

夢路の旅をしていく中で、やってみたいことに思い切って挑戦していくというのは今の自分を丸ごと認めていることになっていきます。それはどんな失敗が待ち受けていようとも、先々にどんなに他人に批判されようとも、最後には自分を大切にできるかということになるのだろうとも思います。

そしてそれはその人自身であることの証明になるのだと思います。

人は自信がないからこそ、もっと多くの周囲の人たちを自信ある人たちへ変えていくことで自分の自信も肯定できるのだと思います。自己肯定感とは、実は自分だけでは得られず、周囲にも自信があるからこそ本人も自己を肯定することができるのだと思います。

幼児教育に携わるからこそ、そのことがよく分かります。
子ども達にはそれぞれにやりたい夢があるのです。

それを叶えてあげられるように環境を用意して見守るのが大人の役目なのです。

しかしそうやって今までと同じようにみんな自分に自信が持てない世の中のままだと、より自信がない人を生み出そうとしてしまうものなのです。しかしもしみんなが自分に自信があれば世の中はより自信がある人を生み出していくのだと思います。

誰かを蹴落とし競争して成功することを定義していても本来の人間らしい自分らしい生き方は得られることはありません。その人の個性丸ごとが尊重されてこそ、本来の成功であり、それであってはじめて生命は自分らしく生き始めるのだとも私は思います。

出会いというものは、いつも人を変えていきます。

自分自身の在り方そのものが人を変えていくのだから、それがより確信を持てば持つほどに新たな出逢いを引き寄せていくのだろうとも思います。

この自信というものの本質を、子ども達のためにさらに深めていこうと思います。