自然に近づけるのではなく自然体

人間が人間社会で何かを行う場合は、それは一体何のために行うのから確認すればその定義したものがどういうものかということがよく分かる。例えば、動物園一つでもその経営の定義がどうなっているかで運営の様子もまったく異なってくるのである。

昨日、旭山動物園を訪問して園内を拝見しているとその園の理念も他の動物園とは異なった理解が現場にあることにはっきりと気づくことができる。どんなに多方面から情報を入手していても、やっぱりその現場を観れば顕われている理念を理解することができる。

旭山動物園では、その動物たちもそこで働く人たちも何をもっとも大切にしているかということがはっきりしている。

まず案内板には人間の中でその動物がいるということを理解し、動物園生まれの動物であることがこだわりとして明記されていた。その上で、自然の環境に近づけるのではなくその動物らしさを引き出せるようにしていること、言い換えれば動物たちが豊かに暮らしていけるように環境を用意し見守ることを行っていると方針が示され、その上でルールとして動物を人間が好きなように擬人化することはしないということなど、随所にその動物主体になって物事を定義している様子を具体的に拝見することができた。

以前から訪問したいと思っていたのでとても参考になり、私たちが関わっている幼稚園や保育園にも理念や運営に対して人や動物などとの違いはなく、その保育や教育をするということは一体どういうことなのかと再思考し再定義するのにモデルになる現場の一つではないかとも思えるいい機会になった。

特に私個人は、動物が大好きで何時間でも動物を観ていることができる。幼い時から近くの様々な野生動物に触れたり、犬や鳥などと一緒に育ってきたからそう思えるのかもしれないけれどその動物たちがどれだけストレスを感じているか自然な姿をみせてくれているかなどはすぐに共感できる

自然体の動物は、素のままの姿をみせてくれる、そうではない動物はどこか人間を意識しているから素のままではなく緊張していたり、様子が変な顔色や声色、全体からの雰囲気を出しているものである。

これは人間も同じく、素のままを見せないというのはその環境が安心できないからそうなってしまうのである。

この安心して過ごしているということと、素のままにしていられることというのは、私たちが広める見守る環境においてはもっとも大切なことであろうとも思います。猿山をそのまま持ってきたら猿が自然になるのではなく、猿山での猿が安心できるから猿も猿山も自然体になっていくのです。あくまで環境が主体ではなく、そこで生きる者を主体として環境を用意しているのです。

それを無理に自然に近づけようとし環境を押し付け誰かによって意図された擬人化は、決してそれが幸せなことでもないし、それが集団で生きる力になると教え込むのは単なる洗脳であり一部の環境下でしか本来の生きる力を引き出さず強いては個体で生きられなくしていくことなのです

自分都合や人間都合にあわせていくというのは、どこまでも自分たちの欲にあわせていこうということになっているものでありそういうことを一度やってしまうとその教え込まれた生き物たちは自分たちが一体そもそも自分らしさとはどういうものだったかということを気づくこともできなくなるのです。

人権という思想は、そのものが自由に生きられるようにそのものらしくあることを認めることからはじまります。それぞれに生活のスタイルも異なるのだから、個々にあわせて豊かに暮らしていけるようにすることは大切なことなのです。

私たちはこの旭山動物園から私たちは学ぶことが沢山あります、人間が人間の中でおかしなことをやっていることに気づき、それを少しでも改善するために生き方としてどうあるべきかということを考える時期にきているのだと思います。

自然体でいられる社会とはどういう社会でしょうか。

私たちは随分と、緊張している中で自分を出せなくなっているのではないでしょうか。

本当にそれが私たちが本来望んだ豊かな社会の在り方でしょうか。
これだけ世界から多様化した動物たちが次第に姿を消していく中で、リーダーシップを自覚を持って私たちは何を大切にしていかなければならないのでしょうか。

もっと自分たちの都合ではなく、みんなの都合を考慮してみんなが自分らしく生きていけるような世界をどのように生み出せばいいかを実践していくことだと思います。それは自分らしくいることが如何に全体のお役に立てるのかということを体験していくことだとも思います。

自分らしく生きるということ、自分にしかできないことをやるということ、自分そのものという生き方、今の時代はこのことが何よりも全世界では課題なのです。

子ども達が安心して暮らせる世の中になるように社業を通じて、極めつくしていきたいと思います。

丸ごと認める

昔からあるものを何も疑わずに続けていくのは本能でもある。

親鳥からされたことを子鳥も同じく親になったら行うように生命は役割交代を繰り返しやられたことをやるということで生命を保持していくのである。

例えばこれは外側の現象だけではなく心の方も同じく他人に温かくされた人は他人に温かくしようとし、他人に冷たくされた人は冷たくしてしまう。

心は自然に周囲から思いやりや優しさというものを学んでいき、次第に大切なものに気づいていくようにできている。先天的に優しい人がいるとあるしそうではない人があるというけれど、遺伝子だけの話ではなく私はそれは全体の中でのその人の役割としてそういう個性であると考えるようにしている。

それは身辺の環境だけではなく時代の流れなどにも左右され、その人は最終的には数々の出逢いにより本来の生き方をその発達を通して獲得していくのだと思います。そして自分の心が何を望んでいるのか、心がどうしたいのか、心は何を求めているのかを探し求める旅路にこそ人生に気づく醍醐味があるのだと思います。

しかしこの役割交代は決して同じことをされたから盲目に同じことをいつも返すというわけではありません。

それを自分の心が変換して別のものに置き換えることができます。

例えば、良いか悪いかではなく思いやるというものであったり、好きか嫌いかではなく共感するというものであったり、それは丸ごと認めることから変わっていくのであろうとも思います。論語にもある自分がされたくないことは他人にはしないことということもそれができるようになる人もいるからです。

人はみんな、最初は自分に自信がなく何かがあればすぐに不安になり自分に迷いを生んでいきます。そんな時、自分以外の誰かがその人のことを丸ごと認めていけばその人は次第に自分のもっとも得意なものや大好きなことをやろうとしはじめるのだろうとも思います。

人間にとって、いや生命にとってそのものが迷わないようにするのは天の心と同じく丸ごと存在している自然の真心に触れているときであろうとも思います。
動植物はそれを知っています、この厳しい環境も誰かのためには必要であることを、そして優しい環境も誰かのためには欠かせないのだと、自然は私たちから観ればこちら側にあわせてくれているのであり、自然を自然側から観れば自分らしく自然は過ごしていてそれに生命にあわせているのだとも感じます。

つまり、自然は優しく厳しい環境を通じて一緒に命を育んでいる存在であるのです。

そこから離れることが、如何に私たちを分からなくしてしまうのであろうと思います。それが生きていくための自信を失わせていくのであろうとも思います。

この役割交代も、自然の繋がりや循環の中では確かな意味が存在するのです。それは自分だけなぜこんなではなく、全体の中で自分が担っている役割でもあるのです。繋がりの全体、その丸ごとの中で観れば自分は絶対にここにいていいしここに私は必要だと気づけるのです。だからこそ安心できる境地に根付き、もっと周りを善くしたいと思うこと、全体が善くなっていくようにと祈るように役割を勤めさせていただくことを学び生き方を変換して幸せを噛み締めていけるのだと思います。

それを誰かの意図によっていつまでも誰かと比べたり何かを基準に自分を蔑んだり、そんなことで自信を持つというのはとても馬鹿げたことです。権力や財力、地位や名誉での自信など吹けばあっという間に吹き飛ぶのです。

人としての本来の自信は自然の中にありそこから学びつつ自然と共に歩んでいくことだと私は思います。これは別に山や海で生活すればいいということではなく、心はいつも自然の繋がりに生きているかかということなのです。

子ども達には、さらなる人口増加と孤立と画一化の中で、自らで自然が分かるよう大人たちである私たちの実践を通じて自然と同じように丸ごと認めていきたいと思います。人間を丸ごと認めていけば、必ず子どもたちは自信を持てるようになると信じてたくさんの自然との出逢いから真実を掴んでいきたいと思います。

自然をお手本に

自然を相手にしていると、色々なことが観えてくる。

足下の草一本一本に、それぞれの個性があり全体と調和して自分の生きる場所を見出しているようにも思える。

ある草は、土の表面に根を張り浅く広がっていくし、またある草は深く根を張り高くなっていく、そうやってお互いに元々の個性を活かし合いながら空間を共有してそれぞれの生を全うしようとしている。

私たち人間は、栽培をするということで自然の中のエネルギーを上手に活用しながら自然の御力をお借りして命を育てるというのは大自然の叡智でもある。

この命を育てるという行為自体が、私たちが大自然に育てられていることを自覚することになりそのことから私たちが活かされていることを悟るのだと思う。

つい私たちはそれを忘れ、自分が育っているや自分が育ったのだと勘違いをするけれどそれは大きな懐で見守られているから育てたのであって何もない中で勝手に育ったということではない。

生命あるところ、その全ての場所には偉大な真心が存在している。

例えば、どんなに荒野であったとしてもそれは地球の中にあり空気もあれば水気もある中にいる、そして太陽や宇宙の闇といった欠かせない光と闇が存在して私たちを見守ってくれている。つまりどんなに死の場所と言われるところであっても私たちが宇宙空間の中にいる以上は、私たちは自分だけでは生きられないことを知るのである。

そう考えれば、膨大なエネルギーの中で一部の自分にとって都合の良いエネルギーだけを枯渇するまで遣い切って自滅するかそれとももっと偉大なエネルギーを活かしてその循環に添って活かしていくかを思うとき、どちらが真に賢い選択だと言えるのであろうか。

目先の経済や目先の機械化は、それは確かに便利そうに見える。しかしそれも資源があるうちの話であり、行き着けば止まる、そして止まればまた別の目先の解決に飛びついて同じことをいつまでも繰り返す。大局的ではなく、部分的なところにもっていかれるのは人生長くて80年程度で自分のことだけで精一杯になるような忙しなく過ぎる日常に埋没してしまうからでもある。

別にそれが悪いといっているわけではなく、なぜもっと長いスパンでモノゴトを観ようとしないのかということが問題なのである。

時代の最先端は目先の技術ではなく、実は遠望熟慮した悠久の技術なのではないかと私は思っている。

それは心の働きの理解であったり、自然を通じて偉大な循環エネルギーを利用することであったり、生命の神秘に触れることであったりもする、そういう宇宙を感じる事で人は新しい時代に生きているのであろうとも思います。少し自然に触れれば、すぐに気づけることも隔離された文明の時間枠で流されることは本当にもったいないと思います。

もっと自然をお手本に、自然の先生から学び、子ども達のためにも、何が自然なのか、何が宇宙なのか、そういうことに触れる機会をこれからも一緒に創っていきたいと思います。

繋がり

人間は何かしらの繋がりの中で傷ついてしまったことで心にトラウマを持ってしまうものである。論語に自分のされたくないことを人にはしないことだとあるけれど、それを実践するということは本当に難しいことなのです。人は無意識に周囲の環境の影響を受けるのだから、自分のことで一杯になり余裕を失えばすぐに周りを思いやることができなくなってしまうものなのです。

これは特に社会の影響をより濃くうけ、さらには教育により適用されればそうなってしまいやすくなるのは仕方がないことでもあるのです。本来は皆の心には優しい真心があり、そのことから画一されて孤独にされたことから繫がりが見えなくなり自分を守ろうとしてしまうのはこれは誰でもそうなるのは当たり前でもあるのです。怪我をすれば痛いのだから痛いのは嫌だからそれを避けたり防いだりするのはそれが本能だからです。

しかしなぜ今、そういうトラウマを受ける人が今の社会の中で多いかはこの不自然な関係性から様々な事件があり、その中で正直に自分と正対する中で人は和を尊び睦みあうことの大切さをもう一度思い出し学び直していくことが必要になってきているからです。

 もともと人と人と間の問題はほとんど「繋がり」に関係していることばかりです。

繫がりが澄んでいればおきないことも、循環と同じくその繋がりにしこりが溜まることで流れは悪くなるのです。

 繫がりが観えなくなってしまうときはではどういう時かといえば、自分中心に物事を考えてしまったり、相手のことを疑ってしまったり、自分が傷つくことを恐れたり、自分らしさという安心な姿を見せることができなくなっていたりするときにそういう状況は起き、そのことから不安や恐れを感じてしまうからなのです。これをもっと簡単にいえば全体の繋がりの個ではなく、画一に切り分けた独自の孤のことばかりを思うとき人は全体をあえて観なくなるのです。

そしてその反対に全体の繋がりが観えるときはどういうときかといえば、まずは全体から物事を考えたり、周囲を信じていたり、自分のことよりも相手のことを思いやり、いつも正直な自分のありのままな姿でいることができる環境のときにそれは顕われ、自分が全体との繫がりの中で活かされている実感を覚えて安心するのです。この全体との繋がりを通して許し合うことも認め合うことも自然にできるのは、それが決して何とも分かれていないということを悟るからなのだと私は思います。

これはほとんどの人に同じことがおき、みんな実は不安を恐れるから信じることを諦めてしまっているともいえます。みんな不安で恐怖を感じているからこそ表面上の付き合いや本音を出さなくてもいい環境にしてしまっているのです。誰かが決めた押し付けの役割分担ではないけれど、組織も同じく立場や状況の型に押し込められ無意識にそういうマネージメントで運営されてしまうこともあるのです。

 しかしもしこの繋がりを信じることを諦めれば自分の個性を真の意味で活かすことができなくなります。

なぜなら自分を活かすとは独りだけで無人島にいてもそれはできないのに似ています。単に独りだと全部独りですればいいし、自分がどんな役割があるのかなどわかりません。しかし周囲がいることで、自分がどんなことが得意でどんな個性があるのかを知ることができるようになります。重たいものが誰よりも持てる人は集団の中で力持ちになり、手先が誰よりも器用な人は集団の中で物づくりなどを担います。こうやって自然に個性は発掘され、集団の中で自分を活かせることで貢献と共生の歓びを味わい自分らしく幸せに生きられることになるのです。

 この自分らしくいられてもいいというのは、実は全体の繋がりの中ではじめて感じることができる境地なのです。

 それぞれが独自に自分らしくというのは本来在り得ず、それを勘違いするとただの自分勝手になってしまうこともあります。全体ではなく自分だけで自分らしくしてもそれは自分都合であるので自分勝手になるという意味です。そうではなく自分自身が全体の集団の中で何のお役に立てるのかを考え、皆の意見を聴き、その自分を自ら集団に活かせるように貢献していくことこそが真の個性の発見と活用であるのだと私は思います。

 人は独りでは活きられません、それは人は集団で自分を活かすことではじめて活きることができるからです。

そして自他の幸福のためにみんなのお役に立てるよう、みんなが安心して一つのことに取り組んでいけるように自らが周囲を恐れず心を開いていくのは「勇気」なのです。

 そしてその勇気があれば愛が顕われ、愛が出てれば自然に日本人の大切にしてきた和の心に周囲も自分も包まれていきます。

つまりは、懐で見守られていることを実感できるのです。

 私の使命としても、もっと自然に安心して暮らしていけるような社会を創造するためにもっともっと学び実力をつけていきたいと思います。みんなが幸せに暮らせる世の中を信じてまずは自らが勇気を出して心のままにあるがままを認めて繋がりに光を当てていきたいと思います。

変革と受容

 

世代と共に新しい概念というものは常に生まれ変わってくる。

今までは、当たり前だと思われてきた価値観も100年もすれば完全に変わってしまうものです。

もちろん。普遍的なルールとしての仁義などの道理は変わらないけれど時代環境にあわせてその道理を維持していくのに創意工夫を続けるのは今の世代の役割でもあり使命であるのだと思います。

その節目にそれを行うには、あまり以前の先入観に囚われずにその時代での正しいことを自分の頭で考えだし開発し創造できなければなりません。

あれはダメ、これはダメと言われても、自分が信じた道を自らの足で歩むという強さが必要になります。

今までの固定概念であったり、慣習であったり、価値観をガラッと変えてしまい本来の在り方に変革できる人というのは柔軟性がありながら強固な信念を兼ね備えている人でなければ乗り越えられません。

そしてそういう人物のことを時代のリーダーとも言います。

どの業界でもどの時代でもそうだけれど、今までのやり方では通用できなくなる瞬間が必ず現れます、それは時代にあっていたら生まれただけであわなくなければ死んでいくからです。その循環の中で存在している意義が消えるのだからいつまでもそういうものに執着して狭い空間で必死にやっていてもそこに本当の自由はないのだから競争か保守かといった偏った見方で身動きが取れなくなってしまうのであると思います。

業界への執着も、会社への執着も、商品への執着も、何でも執着しているところを基準にやろうとするから全体の循環が観えなくなってしまうのだとも思います。そうしているうちに頭で考えることばかりで処理できるようになるうちに心で物事を素直に感じる力が衰えてしまうのだろうとも思います。

そしてそういう人たちを古い人たちが阻害しようとする環境が出来上がっているから生まれにくいのでもある。若い人を育てるということの定義が間違っている人たちがたくさんいます、若さというのは新しい世代を信じるということなのです。それは言い換えれば、新しい考え方を受け容れるということなのだと私は思います。

もともと今までの価値観や固定概念でやっているのでは、そこを守らなければ今の自分の身が危険になるからでそこから不安からそういうものを生ませないように圧力をかけてしまうのです。ちょっと勤めてベテランになっただけでも新しい考え方を受け容れられなくなるのを見ると少しがっかりしてしまいます。

これは別に外界だけの話ではなくその人の心の内界でも同じようなことが起きていて、自分を変革するのはあまりにも危険だと感じている感情があり、新しい環境を心が受け容れようとせずに壁を創りあげているから壊せないで変われないという構図なのです。

自分を変革するには、素直で在る必要があるのは今までの知識などを恐れずに安心して懐で見守るような境地がいります。自分が何を言っても、何を話しても安心できるということが何よりも大切なのだとも思います。それが自分自身でできているかということなのです、それも素直であるかということを言うのです。

そしてその内界を外界にも及ぼしていくことで、世界を変革する力を発揮できるようになるのだとも思います。

今、ちょうど時代は過渡期で今までの既成概念が通用しなくなる狭間に私たちは存在しています。これから必要な力は、そういう変革期において自らを変革させていく力なのだと思います。それは融通無碍に自由にいれる心、つまりは素直さが必要であると改めて思います。

日本の経済も社会も、素直さが切り開くカギになるのだからもっと皆が安心できるような世界をみんなで自覚していくことです。まずは自ら、その変革の旗をあげて歩んでいこうと思います。

自由と素直

他人と話をして見聞きしていると他人は自分の分からないものをたくさん持っているということには驚くことばかりである。どうやったらそうなるのかまったく見当もつかないようなことを自由に発想し、それを提案して遣り遂げる。

世界中の新しい公式も法則も、その時代時代で自由に変化し融通無碍に変わっていくことを思えば新しい概念とはそういう自分らしい自由なところから起きてくるのだろうとも思う。

今までの自分の古い価値観に縛られてしまうと、自分がどうしてもその概念から抜け出せなくなる。そしてそれが自我の執着などとくっ付けばより狭い世界に留まり視野が狭くなって頑なってしまうものである。例えば、日々の仕事でも組織のことでも、または目さきの工夫でも実は新しいものの中ではなく古い価値観を通じてしか追加居ないことに気づくこともある。

なぜなら新しい発見とは、正直で素直でなければ見出すことができないからです。

自由に何物にも囚われずにまったく誰も考えもしなかったことを思いつくことであったり、もしくは既成の概念に縛られない融通無碍の境地とは、まるで真っ新の紙に新しく書き記していくことになっていることに似ているのです。途中からいつも書いていたのではその限界が最初の時点で決まってしまうからでもある。この真っ新になっていることが素直であり自由であるのだと私は思います。

しかし人はすぐに過去にしばられ、周囲を気にし、先に入れた知識が壁になり、そして無難を目指してしまい不自由な中での自由を必死に目標にしてしまうのです。

もっと概念や過去の失敗や、その時代の間違いなどを恐れずに今の時代に必要な課題を新しく切り開いていく勇気が必要なのだと思います。なぜなら過去を恐れて未来に不安を感じ、今を失っているような生き方をしていたらそこに本当の意味での自由は手に入らないからだと思います。

自分の自由は、好きなことをやることだけれどそれは何にも囚われずに好きでいる事、好きなままでやっているということなのである。それを正しく社会貢献のために活かし使っていければこんな幸せなことはないのです。

そしてそういう何でも自分の好きを正しく貫いていくには、柔軟性が必要なのだと思います。この柔軟性が自由でいることの証なのだとも思います。

例えばこれからの時代は、時の流れと共に変わっていくチームというもの、会社組織というもの、世界経済というものも、今までの既成概念から発展させてもそれは単に過去の産物にしがみ付いているだけでこれからの世代に譲っていくにはあまり価値もありません。

新しい時代はどうせ新しい世代を創造し、真っ新にしていくのだと思います。

そして私の役目も新しいカタチを創造していくことであり、それこそが本当の楽しみであり私の好奇心のもっとも輝くところです。

きっと子ども達はきっとこれからの未来、すべてのことを新しくしていくことになると思います。

世代を超えていく中で大切なのはその自由な発想なのだと思います。

何をやってもいい、好きにやってもいい、それが失敗だったりしてもいい、新しく挑戦していくことこそが変化であると思います。

変化を楽しむ心は自由な心であり、自由はすべてに素直であることに尽きるのです。

天与の才を活かし、天与の使命を果たし、天与の繋がりに生きれることは自然であり幸せであると実感します。

子どものモデルになれるよう挑戦していきたいと思います。

 

確認とは

確認することは「自分から」というのはまとめた通りです。しかしその確認とは何のためにかということをまとめてみます。

例えば仕事いえば、日々の業務の中で相手の判断に対して自分が判断するために確認をするのだけれど、それは言い換えれば相手や周囲の判断を聴きながら自分がどうするかという全体像からの自分の役割やその使命を理解しているのが本来の確認をしているということになります。単なる確認も自分の目先の業務や自分の小さな範囲での課題の解決のためにだけ確認していたらそれは単に自己満足になってしまうだけになりゴールイメージやビジョンに対しての使命を果たすというところまではいきません。

全体像、つまりはゴールイメージやビジョンに対して自分がどのような役割があるかを掌握し、その使命を果たすために自分がどうするのかを自覚自得することこそが自分からの確認でしかできないからです。このゴールイメージやビジョンとは皆で目指している夢の実現ともいい、その夢を共有しその夢の実現のために自分がどんな使命を果たすかということをそれぞれが確認して一丸となるときはじめて一体感を味わいながら偉大なことに果敢に挑戦することができるのである。

そしてそういう時は、失敗を恐れずに勇猛果敢に挑戦していくことができるから不思議なのです。

人間は志さえあれば、使命を求め旅立ち、そして偉大な夢を追える仲間と出会い人生を謳歌するのです。

最初から自分の保身をしたくて保身をする人はいません、そうではなく夢が観えなくなってしまうからそうなってしまうのです。特に偉大な夢を描いているような人と仕事するならば、自分の小さな範囲での世界ではその世界を理解することはできません。その人が描く偉大な夢を理解するのは、本当に大きな夢をかなえようとしているということを自分から確認していかなければ気づくこともないのです。

同じ夢に向かって同じ船に乗るということは、その偉大な夢に向かってそれぞれのクルーが自分の使命をリンクしそれを実現するために自分から確認しつつ日々の困難を乗り越えていくなかで充実した人生を伴に歩めるのだとも思います。

自分の将来は自分だけの自己満足ではまったく見えません、誰がいようがいまいが、何があろうがあるまいが、どのような環境下であろうが、自分が遣ると決めた偉大なゴールイメージに参画して自分の役割を果たすということではじめて将来がワクワクしたものに変わるのです。

自分自身の将来像は、夢の全体像と繋がっているのです。

だからこそ、今を真剣に生き切ることで天に任せてもいいという絶対安心立命の境地を味わえるのです。

夢を観る事は深刻なことではなく、その夢が大きいからこそ使命に燃えて輝かしい未来を切り開いていくことができるのだと思います。だからこそ日々の仕事で自分自身から確認を怠ると夢が遠ざかるだけではなく、夢に参画しているこが何かまで分からなくなってしまいます。

自分から確認をすることの大切さは、夢の実現に向かって自分の使命と役割を果たすのにとても密接だからなのです。その夢を叶えているのかそうではないのか、一歩ずつそれを築き上げていくことで大きな柱が立ってくるのです、そしてそれを実現するときに勇気が出るのも偉大なことに自分を活かしているからなのです。

夢を語っていくことを続けていくことや、夢に向かって一生懸命にいることは、周囲を活かすことと同じなのだと思います。それが自然なのですから、子ども達のためにもまず夢に向かって大航海の日々を信頼できる仲間たちと共に味わっていこうと思います。

自分から

何かを行う際には最期まで遣り切るということはとても大切なことである。
それはできるかできないかの方法論を考えているのではなく、遣るかやらないかという成果に対する熱意のようなもので決心しているからでもある。
例えば、何かを行う際に自分がゼロから最期まで全部やると決めているならばそれを自分がやるために最期まで遣り切ることができる。しかしそうではなく、どこかの誰かがやってくれるだろうと思いながらやっているといつも他人のせいにできるところでやっているから方法やメソッドばかりを探し回るばかりで結果がでないまま年月だけが過ぎて流されてしまうことになる。
明日は明日の風が吹くではないですが、毎日、日和見的に誰かのせいにできる場所で自分がいつも流されていたらそのうち事なかれ主義に陥り、結局は何も自分でできない人というレッテルを周囲から張られることになる。
実は結果を出すというのは、何があっても誰かのせいにできない場所で自分からやっているかどうかということがはっきりしているのである。それは、誰かではなく自分がやるのだから自分の頭で考え抜き行動しきっていく中で自らが掴み取ったもので結果をだしていくという方法論ではないところで勝負しているかどうかということなのである。
方法論が出ているうちは、まだまだ何か他の方法があるはずと探し回っているだけで前に進んでいるわけではない。一見、その人は必死に何かをやっているようには見えてもそれは実際にはあまり全体への効果はない。なぜなら人間は自分自身の足で前に進まなければ何かがあった時に他人のせいにしているようではとても自立しているとは言えないからでもある。

全体のために自分が何をやることがもっとも価値があるのかを知り、その役割を自分から果たして成果を出すとは自分が全部やることになっているからできることである。それは言い換えれば、誰のせいにもせず自分が最期までこれを遣り切りますという覚悟と決心ができているということである。
今までの歴史をみてきても、いつか誰かがやってくれるだろうとしてみんなが個々で立ち上がろうとはせずに一部の人たちの努力に期待して待っていればいいという生き方をしている人たちもたくさんいることはわかる。そして今のような時代はその情報量の多さや、単に知識だけで分かった気になればやれるものだと勘違いしているから目先のメソッドや方法論や仕組みにばかりに目が行き肝心な「まず自分から」という発想が欠けてしまっていることも見受けられる。

しかしこれは他人事ではなく自分も関係しているのだからいつまでも誰かがなどと他人任せではなく、「まず自分からやればいい」のである。

仕事も同じく、なぜ「確認」が大事かというとそれが「自分から」になっているからである。

自分から確認するのは、誰かをあてにすることをやめているから自然にそうなっているのであり個々の主体性とは何かといえば、それは全体のために個々のみんながそれぞれに自分からやっていることをいうのです。

根性論でもなく、方法論でもなく、精神論でもない、ただ「自分から」かどうかなのです。
それはつまり、自分の「生き方」の決心であるのです。

子ども達やこれからの日本の未来のことを考えれば考える程に、全体のために自分から考動していくことを大切に模範を示していけるようになりたいと思います。

失敗は成功の母

人は何かをしようとするとき、必ずそこに失敗というものがついてくる。失敗しなければ成功もなく、当然成功するのなら失敗があったからでもある。そしてその失敗と成功の繰り返しの中で間に存在しているのが成長なのである。

しかし今の時代、どうしても偏りその失敗を責めてしまい失敗をさせまいとするような風潮がある。それに失敗した人に対してとても激しく咎めることで、失敗をすることを恐れてしまうような環境もある。逆に成功者には成功を持て囃して成功しかさせまいとするような風潮もある。成功していなければ価値がないとまで仕立てあげるような環境もある。

そういう私も数々の挑戦の中で、たくさんの失敗をしていきそれをかなり激しく叱責されることで失敗は良くないことだと思い込んだり、失敗をしないようにしなければなどというような思考に陥ってしまうこともある。成功も同じく、ずっと成功のままと見せなければと勘違いしてしまいそうなこともある。

しかし持ち前の好奇心からそれも長くは続かず、どうしてもその先にあるものを観たいと思ったり、何が何でも大義のためにやるのだと念じることでその失敗への恐怖を吹き飛ばしてきたことで今が在る。志を立てたことで成長意欲や向上心が芽生え、あまりそういう成功失敗は気にせずもっと実力をつけてお役に立ちたいという気持ちが前面に出ます。

特に私の場合はそれを発揮するのは、何かのためや誰かのためにと自分の使命感や思いやりが発動するときにもっともその勇気を発揮することができる。

人は自分のこと以上の大切なものに出逢い、自分自身がそれをやることに意義を実感すれば次第に後押しされていくものでもある。目先のことに囚われ、足下のことばかりに注視していたら、本当の意味で人生の幸福感を味わうことはできはしない。

人生の幸福感は、自分の命が何か偉大なものに役立っていると実感しているときこそに感動していくのだとも思います。

そしてそれを豊かにしていくものこそが実はこの失敗でもあるのです。

この失敗は、覚悟ともいい、覚悟がついたとは失敗することも厭わないと決める事、つまりは失敗も担保にいれてまで挑戦して最期まで遣り切りますという決心のことを言うのである。

覚悟力と失敗力は私にとっては同じであり、失敗したっていい、失敗したってそれを必ず遣るのだという熱意や情熱がその決心から滾々と湧き上がってくるのだとも思います。

覚悟力も失敗力もその力の源は決心による勇気なのです。

この自然の持つエネルギーに似た子ども心も同じく、その背中を見守る偉大な後押しを実感しながら突き進めることこそが維新の原動力でもあろうとも思います。

今の時代は、失敗するということの定義がすべてに悪いことになっています。まずはこの失敗の定義から転換し、失敗こそが大きく育つのだと見守りその妙味を味わっていきたいと思います。

失敗は成功の母、そしてその失敗を見守る心こそが親心だと学んでいきたいと思います。

心を開く3

前回までのブログにあるように心を開いて本心の自分と対面してもさてその生き方を決めるとなるととても難しいものがある。

いくらそれが正論で的を得ていて感じることがあったとしても、本当の意味ですべてを納得できていなければそれを受け容れることは難しいからである。

自分の中ではかなり昔に答えが出ていることでも、どうしても心意の両面がそれを丸ごと認めてなければ納得していることにはならない。大体この本来の自分との付き合いにおいて自分をかつて信じてあげることができなかったことからバランスを崩してしまい定位置が掴めなくなり揺れ動いてしまうのだと思います。

これはあの大きな海と同じく日頃は何かしらの風や多くの環境の影響を受けて波が動いています。しかし穏やかになれば静かになるように、海の様子もある一定の静謐さの中で調和を持つようになっています。

本来、水がそうであるように水の本体とは何かと考えるときその性質を通して私たちは心意の世界に触れることができるのだとも思います。水を科学していくことは、それだけ自分の心意を知ることに繋がるのだと思います。

心を開き決心をするには、長い時間と自分との対話、つまりは向き合いというものが必要になります。この向き合いを通して人は本心と出会い、自分の生き方というものに触れていくのだと思います。

そしてそれを決心するには実力が必要になります。

今までの総力戦というか、ここだけちょっとやればいいではなく文字通り全身全霊でそこに一心同体一心不乱に傾けるという覚悟のようなものがいるのです。

その時、実ははじめて心が開いているといっていいのだと思います。
三種の神器の一つである「正直」でいるということは実はとても深淵なものなのです。

至誠というものも、真心というものも、誠意というものも、それを実行するには実力が必要であり、その実力とは言行一致、自分の心からそう思っていることを想い続けて勇気を出して行動するということができるかどうかになるのです。

迷いがあるのは、そういうことができなくなっているからでもあります。

自分が本当に求めているものを手に入れるには、自分自身との向き合いが必要でその向き合いは自分に嘘をつかないことからはじまります。それはつまり素直であるかどうかということです。

他人にも素直でいるためにも自分にも素直でいることはとても大切なことだと思います。子ども達は今、どのような環境の中で声を出しているのでしょうか、本当に自分の言いたいことを全部いっても大丈夫だと思えるような見守る環境が用意されているのでしょうか。

心を開くことは、まずそれは大人たちが本音をいつも話していけるような環境を用意してはじめて子ども達に及ぼしていくのだと思います。世界のために自分を役立てることができるお手本となるような生き方を示せるよう、日々の心法を高めていこうと思います。