心を開く2

人は何かの問題を観照するときには、自分の心意がどこに囚われているかを知ることは大切なことである。

例えば、山登り一つをとっても熊や猪のことばかりを考えていたらずっと登山中はそのことが気になり登山路を決めようとしてしまうし、またそういうものに自らで近づいていってしまうこともある。そうではなく事前の準備を尽くしてそうなったらその時考えるというように楽観的にしていると意外と山全体が観えて楽しんでいるうちに乗り越えるものです。

同じく人は何かの問題があるとき、自分の中で取り外せない執着というものがありそのことからどうしても自分が偏ってしまうことで問題から抜け出せなくなったりするものだと思います。

目の前に穴があれば単に避けて通ればいいか飛び越えればいいのだけれど、その穴に落ち込んだことがあることが気になって動けなくなるように、人は過去の経験や体験から得た知識により他の方法が思いつかなくなることもあります。

ついつい分かってはいても動けないのは、そういうものにひっかかってしまうのです。成功体験を積んでいくことで乗り越えられますが、そうはいっても心情としては難しくそれをきっと大丈夫だと信じて見守ってくれる人がいたり、一緒に歩んでくれるだけでも安心して進むことができるようになるのだと思います。

子ども達を見ていたら、何でも挑戦して失敗してはまた立ち上がり、そしてもう一度やってみるというようにできるまで何度でも繰り返し取り組んでいます。最初はできなかったのに、周りを見ながらどんどん自分なりにやっていきながら最後には必ず納得するところまでできるようになる。

そこには素直に物事の実相を掴んでいるような子どもの心が存在しているように思います。そしてそれを自らも子ども心で感じるときは天が自分を導いてくださっている感覚と見守ってくださっている偉大な親心に包まれていることに気づきます。

親という字は、木の上に立って見るという字でできています。

自分がどんなに何度も失敗してもいつも暖かく見ていてくださっているという安心感が、人を前に向かわせ自分でできるようになろうと、つまり心に生きる元気が湧いて出てくるのだと思います。

そういう心はいつも自分が素直であるかということが関係しているように思います。

チャレンジしてもどうしても乗り越えられないときは、方法論ではなくその心境がどうなっているかを問うことがコツのように思います。壁があるのは、壁を受け容れないことから発生してしまうのだと思います。

そしてそれはやはり素直な心であるかどうか、自分が融通無碍に何でもオープンに心を天や周囲へあるがままに開いているかということだとも思います。

しかしこれが本当に難しいからこそ、道を歩む同志や仲間の真価があるのだとも思います。

一瞬一生の出会いやご縁が感動に満ち溢れていると実感できるのだと思います。

私自身も自由に受け容れる自然のような子ども心のままに、同じように困っている人々に少しでも自分の体験を役立てることができるようさらなる素直の境地を目指し心を開く日々を精進していきたいと思います。

心を開く

本音や本心というものを自分からさらけ出していくことは大切なことである。

人は自他を欺くことで次第に本音本心で語ることができなくなっていくものである。例えば、知らなかったことをそのままにしてしまい聴こうとしなくなっていくのもそういうところから自分の心や意のバランスが取れなくなってしまうからである。

その人の周りにその困っていることを同じ目線と立ち位置で共感でき何でも正直に相談する人や、何を言っても何を言われても大丈夫だと思っている人が身近にいることはとても大切なことで何かの事象を自分だけで全て考えようとしてみてもその心と意の間に曇りがあれば正しい答えを選択判断していくことができなくなるのだと思います。

全部丸ごと一人で考えることはできません、それはだいたい悩みの問題は人と人との間に起きていることだからです。

だからこそ身近にコーチやコンサルティングが必要なのであり、それはそのパートナーと様々な話をしながら解決していくことや一緒に取り組んでいくことができるからです。

何でも責任感から全部一人で解決しようとしても、結局は全部を一人では解決できないことを独りで背負い込んでしまうのだから最初から一人でやろうとしなければいいのです。しかし人はその立場や職責などから、次第に無理をしたりさせたりすることで狭い世界へととじ込み追い立てられてしまうことがあります。

そういう時こそ自らの心、つまり融通無碍に全体を捉える感性が鈍らないように、本音や本心を出しても大丈夫な状態をこの現実に自分から持っていこうとすることが必要なのだと思います。

しかし実際は、今の時代はみんなそれぞれに困っているはずなのに正直ものが馬鹿を見るといったような風潮があり、すぐに大切なことを言わず体面体裁上のことばかりを取り繕ったりする話が沢山出てきます。

そしてそれで時間をかけていれば対話や会話をしていると勘違いしている人たちもいます。

本来、人間は思っていることを正直に話したり分からないことを素直に分かりませんといえることを美徳としてきました。皆が意識をして正直でいることで和を尊ぶということを昔から大切に日々の生活で意識してきた気がします。

私も小さい時から祖父母や自然に正直でいることを教わりましたし、素直でいることをずっと諭された記憶が残っています。近所の怖いおじさんも自分を遠慮なく叱咤してくれる人も、言いたくないことでも愛情を持って怒ってくれる人も全ての人のその真心が今の自分の先生だと思っています。

今があるのはそういう私に恥をかかせたくないと思った愛情から発した行為だったのです。

なぜ自分から心を開く必要があるのかは、その先に人が信じあえる命の繋がりを味わう素晴らしい世界が待っているからなのです。仲良く助け合い睦まじく思いやりを持ちながら生きていけることほど幸せなことはありません。

「聞くは一時の恥、聴かぬは一生の恥」ではないですが正しく聴けるようになることは自分の心を丸ごとさらけ出すことができる人であってはじめてできる境地であるのだと私は思います。

この「聞く」と「聴く」の字にもあるように、聞くのではなく聴くことができるかということを説いているのであると思います。心からになるには自らが恥をかこうとしないと聴けないのです。

それができないのは何か否定されるのではないか、何かを思われるのではないかと相手や周囲を疑うことや知ったふりをして自分の心意を閉ざすのはまだ本心本音の素直さや正直さが出てきてはいないということになっているのだと思います。

別に知らないことは恥ずかしいことではなく、知らなかっただけだと思います。そして分からないのは恥ずかしいことではなく、ただ分からなかっただけだと思います。

ただそれだけの話です。

其処に余計な感情や偏見を入れないようにすることで「分かりません、教えてください」という真心、その正直さは自然に引き出されてきます。自分から分かろうとしていけば人はみんなとても親切な人です。怒ってまで教えて下さる人も意外とまだまだたくさん残っているものです。

自分から素直になっていくのは自分から丸ごと心を相手に開いていくことを言います。心を開いていくことではじめて人間関係は透明な揺るぎない繋がりを得るのだとも思います。

怖がらずに心を思い切って開いてみる事で生き方は変わるのだと思います。世間は正しい、身近な人たちはすべて正しいと思ってみることから実践していく日々を楽しみたいと思います。

教わること

生きていく中で謙虚で素直であるかということはとても大切なことである。

いつも自分が自分を守っていたら誰もその人に本当のことを教えてくれることがなくなってくる。そのまま大人になってしまえば、プライドばかりが残り、大切なものに気づかずに感情に呑まれてしまっていることもある。

例えば、恥ずかしいということも知らなかっただけで知ってしまえばできなくなるのだけれどいつの年齢になってもそう思えないのはそれまで誰も教えて下さる人がいなかった、いやそういう人を自分が遠ざけているからでもある。

誰かが教えてくれるということは、自分では気づけなかったことを伝えてくれているのであり自分が気づかなかったのはそれを聴く心の姿勢ができていなかったからでもある。

いつも周囲に心を開き、素直な気持ちで話を聴けば自分のためになることを言ってくださっているのである。それをいちいち否定してしまうのは自分の中に心を閉ざした場所があるからでありそれを受け容れたくないと最初から心に重しがのっかっているからでもある。

もともと歪むという字は、正しいことの上に不が乗っている字でできている。

これは何でも正直でない捉え方をすること、何でも否定から入ってしまうような心境を持っていることを歪んでいると定義しているのである。

もしもそれが自分のために言ってくださっていると素直に感じ入るならば、感情的になるよりも前に諫言や助言は有難いことだと感得しすぐに改めるというのが教わるという境地なのである。

モノゴトを教わるというのは、今まで知らなかったことを教えてくださっているという姿勢を正すことである。それは今まで知ろうとしていなかったことを恥じて正しいことを素直に学んでいきたいという心の曇りのない状態を言うのである。

人はすぐに否定されると心が波立つのは、自分の心の中にそういう部分が存在しているからである。それを独り慎み、すぐに改善していくことこそが学問をしていく本懐であり意義であろうとも思います。

まだまだ自分は表面上に流され、感情的になることがあります。

しかし、他人は皆教師だということを学べるよう正直な自分を大切にしていきたいと思います。

感謝

自分とは何か

自分ということを理解することは難しい、それは自我とも言える独自の「自」と、全体の部分であり自然の一部である「分」ということを正しく知るということからはじまるのだと思う。

人は迷い惑うのはこの独自の「自」が独孤になってしまい自分都合で何でも動かそうとするからでありそもそも全体からすれば外れてしまうからでもある。もしこれは分度を定め、自分の「分」の方から考えて全体が善くなるようにと分限を活かそうと思えば迷いから覚め全体との繫がりの安心を得るのであろうとも思う。

そもそも独自の「自」は、全体を受け容れている中で一生懸命独自を勤めさせていただくことでありそれを遣り抜いてさえいれば後は自然にお任せするという意味で後半の部「分」が成立するのである。

もしもそれが「自」の方を一生懸命に尽くそうとはせずただ「分」の方で全体に依存してていたらそれはそれで自然の一部としての役割は果たせずに正しく「自と分」を活かせなくなる。

この道理は、自分を活かし自分を立てることが存在になるのだから誰しも必ず通る道なのである。

この独自の「自」と全体の「分」を合わせて自分だと定義すると、この「自」は貢献しようと一生懸命の命を尽くしていくことであり、次の「分」はそこではじめて全体と共生していくということを指している。

この貢献と共生とは、つまり自分の命を全体のために尽くしていくことを言いそしてそれを私は自然であると定義する。そういう自然の中で生きていくことを命を見守っていくということであるとさらに定義する。

人は生きている以上、この自分との付き合いをどのように折り合いをつけていくかにかかっているのである。心は、そういうところに置いてあるものであり天の心も自然の心も自分自身の命の置所で決まっていくのであろうとも思います。

私は留学していた時に、出会った立命という言葉、今なら少しずつ理解できるようになってきました。

自分ということを正しく知ることを知命といい、それを天地自然の中で活かしていくことを立命という。

この命の立て方に思想と実践が必要なのです、そして自分というものを理解していく過程で人は絶対的に命が全体によって活かされていることを感知していくのだと思います。

自分だけで生きられないままに自分は生きているということを覚るのです。
そしてそこから如何に自分が命を立てていくかを悟るのだと思います。

今の時代の人たちの多くの自分はこの「自」の方ばかりが目立ちます、もう当たり前の共生関係から成り立つ自然から遠ざかりどれくらいの月日がたったのでしょうか、しかし本来の私たちはこの「分」で和を生きてきたのが日本的根源精神であったと思います。

子ども達のためにも如何に「全体が善くなるように自分の命を活かす」ことをあるがままの自然を通じて学んでいきたいと思います。命は貢献と共生があってはじめてあるのだということを体現していこうと思います。

言葉の共通理解

コミュニケーションというものはとても大切なものである。

基本は同じものを観て、同じものを感じて、同じものを味わっていく中でお互いに気づいたことや感じたことを共有していくことが大切になる。

しかし昔から人間関係は言葉を中心に高度な文明を築き上げてきているのだから言葉を使ってというのがほとんどになる。しかしその言葉には定義があり、その国、その時代、その環境、その生活、風土にあわせてそれぞれ意味が異なってくるからそれを共通理解することはとても難しい。

その他には、その人の人生経験や立場、役割から語られる言葉だということを認識するにはその言葉を認識する側の懐の深さのようなものがいる。

表面上の対話や会話で事を済ませようとする現代では、全部を事細かく言わないと伝わらないというようになってきている。それは言葉でのコミュニケーションが次第に通じにくくなってきているということである。

日本人は昔から場の空気感を読み込んだり、以心伝心と考えていることや思っていることを全体の環境を通じて理解していく力が長けている。

それは非言語での対話であり、相手を信じる事や共感する力、御互いを思いやることで伸ばしてきたものであろうとも私は思う。

幼少期から子どもを真ん中に地域で見守り育ててきた集団の中で培われた私たちの文化の智慧だと思うけれど、今ではそのような環境が失われ個別に画一的に育てるようになったから地域や見守りが失われ共に正しく通じ合うことが難しくなってきているものもある。

環境や風土が対話にどれだけの影響を与えるかは考えないでいると危険なのである。

言葉というものは、そのものにはその人の使っている定義がある。

今、私が書いている文章も話す言葉にもその意味がありそれが何かというものがはっきりしていなければ読み手にも聞き手にも伝わることは難しい。

だからこそこういう意味であるとはっきりと公言し定義することや、本質的な共通の部分で同体験を通じて理解し合うようなことで一つずつ対話に必要な言語を再認識していく必要がある。

言葉は知っているようで実は分かってはいない、最初に覚えたときの経験でその言葉の意味を理解したままになっていたり、その人の体験からきっとこういうことだと思い込んでいたりもする。

例えば、恋愛という意味でもどのような恋愛をしてきたか、知ったのかではその恋愛という意味もその人たちによって定義はまったく異なっているのである。それが互いにそれぞれの生き方などが違えば、今までの人生やこれからの決めた生き方などというものはもはやほとんど理解しあえないほどに言葉の定義は異なっているのである。

だからこそ、常日頃から頭で理解するのではなく心を遣って対話をする必要があり、その心から正直にゆとりをもってオープンに話していくことが通じ合っていくことの智慧であるのだと思います。

そうやって心を遣い言葉ひとつひとつを大切にしていくことは、言霊の幸わう国の伝統であり神代からの大切な教えであるのだと思います。

もう一度、原点に帰り言葉を定義することから学び直すことだと思います。子ども達にもそういう接し方でいることで言葉というものを大切さそして関わりを持つことの意味や本質を保育を通じて楽しんでいきたいと思います。

自分らしくとは

人生を丸ごと受け容れることは、天に従い任せてそれを素直に受け取り気づくという生き方を感じる事である。

人は様々な自分の思い通りにいかないことがあり、それは感情という曇りによってさらに迷いが増幅していくものである。そのことを振り払おうと外の世界に文句を言ってもそれで何かが変わるということはない。

生き方というのはそれだけ頭では考えられないものであり、そもそも自分が何が好きかやどんな夢があるかというところまで掘り下げなければ捉えることもできないものであろうとも思う。

自然に生きていけば、人はあまり他人の評価のことに影響を受けないのだけれど教育により知識を覚え、様々なことを分かった気になっていくことで固定概念というものが染みついていくものであろうとも思う。

そういう固定概念があることを知り、もう一度最初から学び直そうとするところから生き方というところへ入っていく人が多いのだろうとも思う。

今の日本の社会でそういうご縁や機会を持てる人は一体どれだけいるのだろうか。

自分に正直に生きようとすればするほどにすぐに自分らしくいることが難くなるではないか、それは今の社会は周りを過剰に気にして周りのことにあわせることばかりを優先することで本音と建て前を使い分けていたり、本当と嘘を使い分けていたりする社会に自分が置かれてしまうからである。

例えば子どもには良いことを言ってそれをやらない大人たちや、お金のために自分なら嫌だ思うことを平気でやったりすることは暗黙に了解されていたりする。

ゴミを捨ててそれを拾っている人を創るような仕事をわざわざ創りあげそれがリサイクルだなどという人もいる。そもそも捨てず拾わないよう皆が大事にすればいいだけなのにそうはしないのはお金にできないからだという。

本末が顚倒する社会に生きるということは本質的であればあるほどに難しいのである。

しかしそれでも自分らしくいたいなら誰が何と言おうと自分が正しいと思ったことや、自分が信じたことをやることである。

それが生き方を問うことなのである。

何かのために我慢をしたり誰かのためにあわせたり、固定概念に縛られたり、目先の我欲に揺れ動いていると本来の生き方へ転じることができないから苦しいのである。

自分らしく生きるということは、もっと自分の本心や本体を信じる事である、つまり正しいと思ったなら自分を最期までちゃんと信じてあげる事である。

そしてそれをするには自らの心に自然の流れを感じていくことであったり、心を自然に溶け込ませることであったり、心のままに自然であるということを意識するだけでいいのである、つまり「これでいいのだ」と信じてあげることである。

それが次第に天に任せるた天に委ねる、天命に従うという言い方になるのである。

しかしそうはいっても私を含め生き方に向き合うのは難しく、人間は当たり前のことをすることがもっとも困難なことであり、この当たり前ができれば一人前に自立しているといってもいいのであるのではないかとも思う。

人生道場にて天と一体になるや自然に溶け込むという思想は、あるがままという道を楽しんでいるのである。道は眼には見えないからこそ、自然の中に顕現してくるものでそしてそれを感じるときが自分らしくいることであるのだと思います。

私も人生の道の中で矛盾や不可解なことばかりが起きますが、自分に正直にいる方を優先していきたいと思います。子ども達の未来にはそういうことが認め受け容れられる社会を創造していきたいと思います。

復興支援

最近では、大震災に関するニュースもあまり取り上げられず震災以前のように日々に発生する巷の偏ったものばかりに追い立てられ大衆全体が流されているような錯覚も実感する。

復興という言葉の定義も、こうやって時代と共に間違って捉えられていくのだろうけれど時代時代に一人一人のリーダーが本質的に考えて物事を道理に沿って正しくし継承していかなければそのズレは次第に大きくなるばかりでまた次の世代のツケになってしまうものである。

目先がどうかではなく、本質的にどうかということをもっと議論するべきである。しかしそういった話をしたくないから、いや考えていないからできないのであろうけれどそれに巻き込まれたらいつまでも二極化するだけで非生産的な時間をかけていくだけである。

そんなことは知っていると言われてもではなぜ教育を改革しないのかと思う。

本質的に議論できるように国民みんなが考えるためには、今の自分の頭で考えないで一方的に教える教育をまず刷新していくしかないのである。今の国の姿に文句を言う前におかしなことをいつまでも自分たちでやっておきながら自分の首を絞めるようなことをしないと政府も考え直し、本来この国を創っていくための人材を如何に育てていくかということから根本的に見直していく必要があるのである。

学力ばかりを上げることに躍起になっても、本当にこの国を背負って立つようなリーダーは生まれるはずがない。リーダー育成には、本質的に国民一人一人に考えさせ社会に正しく参画させる環境をもっと用意していかなければいつになっても解決しないのである。

何かあるとすぐに1人の凄い首相や1人のスーパーマンに解決してもらおうとする思想はすべてにいて周囲が自分の頭で考えたくないから起きる発想なのである。独裁者が生まれるのもそういう理屈でちゃんと本当は何かから皆が考えればそういう人は発生しないのである。

この復興もそれぞれの国民が復興とは何かを考える事である。

誰かに任せてやってもらうよりも、何を復興するのかを決めることである。

そして今の時代のように何か忘れ去ることが復興みたいに勘違いしている人がいるけれど実際はそうではなく大切なものを忘れないようにしていくことが復興そのものの本義なのである。

皆が助け合い、分かち合い、譲り合い、それぞれが自反しつつ新しいことへ挑戦していくように国民が道と法を定め見守り合い励まし合っていくことなどが何よりも復興の支援になるのである。

道理を忘れての復興などあるのだろうか、絶体にあるはずがない。

私たちも震災後、すぐに会社で皆で被災さらたお客様へ手紙を書いて励ましたことがずっと支えになっているという声もいただいた。これは人は物で支援するのではなく心から支援していくことこそが本来の復興を導いていけるのである。

もっと大事にしていけることを、いくら忙しくしても思いやりから離れずに忘れないようにするように新しいことを続けていきたい。

たとえそれがほんの微力でも、心から祈る日々のように子ども達の心の畑にたくさんの種を蒔いて未来の優しい社会を創造していけるように努力していきたい。

正しいこと

人は信念を持って歩む時、誰しも正しいことを行おうとする。

それは澄んだ自分の心に従い、自分に与えられた天命を尽くしていくことだけれどその行程はずっといばらの道で在ることが多い。

例えば、理想を掲げて理想を歩もうとすれば周囲にはなかなか理解してもらえない。それは、あまりにも理想すぎてできるはずがないと思われるからでもある。

それに一般的には大衆は自分にできそうにないことに対しては、それをやろうとしている人を変人扱いし哀れみの眼差しすら向けるものである。

成功した後などは、周囲の態度も変わるけれどまた時が流れれば次第に変人だとされ理解されないような日々を送ることになるのである。

そう思えば、誰に憚らずとも自分の信じた道を貫くことが何より素晴らしいことなのである。

特に、理想が高く自分の中に定めた大義に生きるならいちいち周囲の雑音に耳を傾けるのは時間の浪費であるのである。そんなことは分かっていてもなかなかできないのは自分に自信がないからでもある。

自分に自信があれば本当の強さを発揮する。

そうやって自分の信じた道を歩むには本当の強さというものがあり、その強さとは正しいことを遣り切る強固な心、そして正しいことを遣り切る柔軟な心、この正しいというのはその全てを併せ持つ中ではじめて実践していくことができるのである。

誰かの顔色や周囲の偏見にすぐに自我が影響を受けて迷っていたら、何をやるにも中途半端になるのである。

まだまだ私は周囲のことが気になってしまい本来の自分のあるべき使命に専念するのに足元を見て迷うことがたくさんあります。

論語に四十にして迷わずとありますが、しっかりと今までの刷り込みを払しょくするために言葉も思想も再定義しつつ自分の強みを真に活かして今の社会に世界に貢献していこうと思います。

まずは自らをそのままに知るところから観直していこうと思います。

世界市民3

昨日のブログで世界市民とはどうあるかと定義する中で、本来の日本人になることだと書いたけれどそれがどういうことか紐解いてみる。

代表的日本人として、内村鑑三が二宮尊徳、上杉鷹山、中江藤樹などを書いている。

そもそも代表的な日本人とは、この日本の風土の中で育った日本的な人物、つまりは日本の風土と同じような自然のままに神代からの理念を基盤に道を極め万物融合し新たな境地を体現する人物のことであると私は定義している。

言い換えれば、神儒仏やキリスト、西洋東洋など誰かが分けたものが分かれていない人物、他に例えれば、日本の風土が生み出した幼児のような存在、そういう大和魂そのもののままに時代の中で日本を体現できている人ということになる。

つまり私は世界市民であるとは、代表的日本人であると定義している。

そのためには、本来の日本の真心を会得し、その理念で生きる人たちが世界で活躍できるような社会を創造していく必要がある。だからこそそういう代表的日本人を見守るような土俵、つまり保育の環境が必要であると私は思う。

元々、この国の人たちは国土と同じくとても若く幼い感性がありまるであの園の子どもたちのように無邪気に様々な出来事や物事を吸収して転じていく力を秘めている。幼児教育に身を置いていると、その幼児の現場で日本の大和魂が育っていることを実感することばかりである。

そこを見守るということがどれだけ大切なのかは理屈では到底語れない。

子ども達のそのままの姿に見出せる大和魂を発揮してもらうには、そのままの子どもを丸ごと認めていく必要がある。その心に、その風土が顕われ新しいものを創造していこうとする力が漲っているからだ。

世界では子ども達を育てるのは文明の存続のために世界市民を育てるためであると私は思う。日本は日本人を育てることが使命であるのは世界では当然で、まるでそれはその土地、その風土、その太古から引き継がれている国土の心がその人に入り込みその根が養分を吸収するかのように育っている人を見守ることである。

自然を観れば、この日本の風土に咲いている花々、木々、虫たち、すべては日本に合うように創造されている。代表的な生き物が外来種によって駆逐されていく中、それに負けないような本物の日本人が顕われることである。

この自然豊かな日本の国土のように、丸ごと受け容れることができること。
そして日本のものとして変換し新しいものを生成していく根源力。
そういう日本的精神を使って自らの命を尽くしていくことが世界市民であるということの自覚なのである。

きっとこれから世界は国境を超えて真に人々が協力していく時代に入る。
なぜなら、世界が一つになってきているからだ。

だからこそこれから世界の中の日本としてどうするか、真のリーダーシップが求められることになる。

子ども達のことを思えば、その時、その瞬間に代表的日本人として活躍していけるように今は脚下の実践を通じて見守る環境を拡げていきたいと思います。

世界市民2

今、世界はとても大きな変化を迎えている。

経済の破たんにはじまった新しい時代の予兆に私たちがどう生きるのかということを世界規模で考える時期に入っている。

身近な社会問題もすべては世界との関係性の中で起きる出来事であり、人がこれからどうするかということを皆で話し合って解決していくという対話と大和の時を迎えることになる。

世界人口は70億を突破し、世界の隅々まで人間が行き渡りこれからどうするかということが求められてくる。それはそれぞれの風土で生きた人間がそれぞれの意思でどのようにすればいいかを世界市民として参画することを意味している。

そして世界市民を思うとき、私たちは何者なのかと言えば日本人なのである。

しかし今は、その最も日本人であるという人はどれだけいるのだろうか?歴史を紐解き、神代からの思いを受け継いで実践し体得した思想と実行、徳を兼ね備えた人物が今はどれだけいるのだろうか。

私たちは日本人として誰を推して世界へ出るのだろうか、それは今の首相などではなく日本の徳を兼ね備えた道の体現者であるはずである。それを大和魂を持っている人たちといってもいいかもしれない。

今年はサッカーのなでしこジャパンが世界の頂点に立ったけれど何を持って頂点かといえばこの大和魂を発揮したからに他ならない。

世界で通用する世界市民の自覚とは、別に世界の人たちのことを意識すればいいのではなくて本来の日本人、日本人としてどうあるかということを透徹させていけばいいのであると私は思う。

元々和の国、睦まじく慎まやかに徳を尊び思いやりと明るさ、清らかさと正直さで豊かに助け合って生きてきた民族精神が私たちの根本には眠っているのである。

それを呼び覚まし、そういうことを今の時代でもできうる人格と社会を創造していくことで世界へ出るのである。何を持って世界市民というかといえば、その大和魂の根っこをどのように世界で育てるかということになる。

子ども達の仕事をしていれば、世界のことを見通し私たちはどう生きていくかということをいつも考えるのがそのリーダーや先生の役割である。先生とは、社会を創造していくものであり未来を構築していく使命を持っているのである。

何を持って教師というか、何をもって先生というか、もう一度ちゃんと定義しなおしていく必要があると私は思います。

世界市民になるために、子ども達と一緒に日本人としての生き方を貫いていけるような環境を用意し見守っていきたいと思います。