最近では、大震災に関するニュースもあまり取り上げられず震災以前のように日々に発生する巷の偏ったものばかりに追い立てられ大衆全体が流されているような錯覚も実感する。
復興という言葉の定義も、こうやって時代と共に間違って捉えられていくのだろうけれど時代時代に一人一人のリーダーが本質的に考えて物事を道理に沿って正しくし継承していかなければそのズレは次第に大きくなるばかりでまた次の世代のツケになってしまうものである。
目先がどうかではなく、本質的にどうかということをもっと議論するべきである。しかしそういった話をしたくないから、いや考えていないからできないのであろうけれどそれに巻き込まれたらいつまでも二極化するだけで非生産的な時間をかけていくだけである。
そんなことは知っていると言われてもではなぜ教育を改革しないのかと思う。
本質的に議論できるように国民みんなが考えるためには、今の自分の頭で考えないで一方的に教える教育をまず刷新していくしかないのである。今の国の姿に文句を言う前におかしなことをいつまでも自分たちでやっておきながら自分の首を絞めるようなことをしないと政府も考え直し、本来この国を創っていくための人材を如何に育てていくかということから根本的に見直していく必要があるのである。
学力ばかりを上げることに躍起になっても、本当にこの国を背負って立つようなリーダーは生まれるはずがない。リーダー育成には、本質的に国民一人一人に考えさせ社会に正しく参画させる環境をもっと用意していかなければいつになっても解決しないのである。
何かあるとすぐに1人の凄い首相や1人のスーパーマンに解決してもらおうとする思想はすべてにいて周囲が自分の頭で考えたくないから起きる発想なのである。独裁者が生まれるのもそういう理屈でちゃんと本当は何かから皆が考えればそういう人は発生しないのである。
この復興もそれぞれの国民が復興とは何かを考える事である。
誰かに任せてやってもらうよりも、何を復興するのかを決めることである。
そして今の時代のように何か忘れ去ることが復興みたいに勘違いしている人がいるけれど実際はそうではなく大切なものを忘れないようにしていくことが復興そのものの本義なのである。
皆が助け合い、分かち合い、譲り合い、それぞれが自反しつつ新しいことへ挑戦していくように国民が道と法を定め見守り合い励まし合っていくことなどが何よりも復興の支援になるのである。
道理を忘れての復興などあるのだろうか、絶体にあるはずがない。
私たちも震災後、すぐに会社で皆で被災さらたお客様へ手紙を書いて励ましたことがずっと支えになっているという声もいただいた。これは人は物で支援するのではなく心から支援していくことこそが本来の復興を導いていけるのである。
もっと大事にしていけることを、いくら忙しくしても思いやりから離れずに忘れないようにするように新しいことを続けていきたい。
たとえそれがほんの微力でも、心から祈る日々のように子ども達の心の畑にたくさんの種を蒔いて未来の優しい社会を創造していけるように努力していきたい。