人生を丸ごと受け容れることは、天に従い任せてそれを素直に受け取り気づくという生き方を感じる事である。
人は様々な自分の思い通りにいかないことがあり、それは感情という曇りによってさらに迷いが増幅していくものである。そのことを振り払おうと外の世界に文句を言ってもそれで何かが変わるということはない。
生き方というのはそれだけ頭では考えられないものであり、そもそも自分が何が好きかやどんな夢があるかというところまで掘り下げなければ捉えることもできないものであろうとも思う。
自然に生きていけば、人はあまり他人の評価のことに影響を受けないのだけれど教育により知識を覚え、様々なことを分かった気になっていくことで固定概念というものが染みついていくものであろうとも思う。
そういう固定概念があることを知り、もう一度最初から学び直そうとするところから生き方というところへ入っていく人が多いのだろうとも思う。
今の日本の社会でそういうご縁や機会を持てる人は一体どれだけいるのだろうか。
自分に正直に生きようとすればするほどにすぐに自分らしくいることが難くなるではないか、それは今の社会は周りを過剰に気にして周りのことにあわせることばかりを優先することで本音と建て前を使い分けていたり、本当と嘘を使い分けていたりする社会に自分が置かれてしまうからである。
例えば子どもには良いことを言ってそれをやらない大人たちや、お金のために自分なら嫌だ思うことを平気でやったりすることは暗黙に了解されていたりする。
ゴミを捨ててそれを拾っている人を創るような仕事をわざわざ創りあげそれがリサイクルだなどという人もいる。そもそも捨てず拾わないよう皆が大事にすればいいだけなのにそうはしないのはお金にできないからだという。
本末が顚倒する社会に生きるということは本質的であればあるほどに難しいのである。
しかしそれでも自分らしくいたいなら誰が何と言おうと自分が正しいと思ったことや、自分が信じたことをやることである。
それが生き方を問うことなのである。
何かのために我慢をしたり誰かのためにあわせたり、固定概念に縛られたり、目先の我欲に揺れ動いていると本来の生き方へ転じることができないから苦しいのである。
自分らしく生きるということは、もっと自分の本心や本体を信じる事である、つまり正しいと思ったなら自分を最期までちゃんと信じてあげる事である。
そしてそれをするには自らの心に自然の流れを感じていくことであったり、心を自然に溶け込ませることであったり、心のままに自然であるということを意識するだけでいいのである、つまり「これでいいのだ」と信じてあげることである。
それが次第に天に任せるた天に委ねる、天命に従うという言い方になるのである。
しかしそうはいっても私を含め生き方に向き合うのは難しく、人間は当たり前のことをすることがもっとも困難なことであり、この当たり前ができれば一人前に自立しているといってもいいのであるのではないかとも思う。
人生道場にて天と一体になるや自然に溶け込むという思想は、あるがままという道を楽しんでいるのである。道は眼には見えないからこそ、自然の中に顕現してくるものでそしてそれを感じるときが自分らしくいることであるのだと思います。
私も人生の道の中で矛盾や不可解なことばかりが起きますが、自分に正直にいる方を優先していきたいと思います。子ども達の未来にはそういうことが認め受け容れられる社会を創造していきたいと思います。