言葉の共通理解

コミュニケーションというものはとても大切なものである。

基本は同じものを観て、同じものを感じて、同じものを味わっていく中でお互いに気づいたことや感じたことを共有していくことが大切になる。

しかし昔から人間関係は言葉を中心に高度な文明を築き上げてきているのだから言葉を使ってというのがほとんどになる。しかしその言葉には定義があり、その国、その時代、その環境、その生活、風土にあわせてそれぞれ意味が異なってくるからそれを共通理解することはとても難しい。

その他には、その人の人生経験や立場、役割から語られる言葉だということを認識するにはその言葉を認識する側の懐の深さのようなものがいる。

表面上の対話や会話で事を済ませようとする現代では、全部を事細かく言わないと伝わらないというようになってきている。それは言葉でのコミュニケーションが次第に通じにくくなってきているということである。

日本人は昔から場の空気感を読み込んだり、以心伝心と考えていることや思っていることを全体の環境を通じて理解していく力が長けている。

それは非言語での対話であり、相手を信じる事や共感する力、御互いを思いやることで伸ばしてきたものであろうとも私は思う。

幼少期から子どもを真ん中に地域で見守り育ててきた集団の中で培われた私たちの文化の智慧だと思うけれど、今ではそのような環境が失われ個別に画一的に育てるようになったから地域や見守りが失われ共に正しく通じ合うことが難しくなってきているものもある。

環境や風土が対話にどれだけの影響を与えるかは考えないでいると危険なのである。

言葉というものは、そのものにはその人の使っている定義がある。

今、私が書いている文章も話す言葉にもその意味がありそれが何かというものがはっきりしていなければ読み手にも聞き手にも伝わることは難しい。

だからこそこういう意味であるとはっきりと公言し定義することや、本質的な共通の部分で同体験を通じて理解し合うようなことで一つずつ対話に必要な言語を再認識していく必要がある。

言葉は知っているようで実は分かってはいない、最初に覚えたときの経験でその言葉の意味を理解したままになっていたり、その人の体験からきっとこういうことだと思い込んでいたりもする。

例えば、恋愛という意味でもどのような恋愛をしてきたか、知ったのかではその恋愛という意味もその人たちによって定義はまったく異なっているのである。それが互いにそれぞれの生き方などが違えば、今までの人生やこれからの決めた生き方などというものはもはやほとんど理解しあえないほどに言葉の定義は異なっているのである。

だからこそ、常日頃から頭で理解するのではなく心を遣って対話をする必要があり、その心から正直にゆとりをもってオープンに話していくことが通じ合っていくことの智慧であるのだと思います。

そうやって心を遣い言葉ひとつひとつを大切にしていくことは、言霊の幸わう国の伝統であり神代からの大切な教えであるのだと思います。

もう一度、原点に帰り言葉を定義することから学び直すことだと思います。子ども達にもそういう接し方でいることで言葉というものを大切さそして関わりを持つことの意味や本質を保育を通じて楽しんでいきたいと思います。