自分ということを理解することは難しい、それは自我とも言える独自の「自」と、全体の部分であり自然の一部である「分」ということを正しく知るということからはじまるのだと思う。
人は迷い惑うのはこの独自の「自」が独孤になってしまい自分都合で何でも動かそうとするからでありそもそも全体からすれば外れてしまうからでもある。もしこれは分度を定め、自分の「分」の方から考えて全体が善くなるようにと分限を活かそうと思えば迷いから覚め全体との繫がりの安心を得るのであろうとも思う。
そもそも独自の「自」は、全体を受け容れている中で一生懸命独自を勤めさせていただくことでありそれを遣り抜いてさえいれば後は自然にお任せするという意味で後半の部「分」が成立するのである。
もしもそれが「自」の方を一生懸命に尽くそうとはせずただ「分」の方で全体に依存してていたらそれはそれで自然の一部としての役割は果たせずに正しく「自と分」を活かせなくなる。
この道理は、自分を活かし自分を立てることが存在になるのだから誰しも必ず通る道なのである。
この独自の「自」と全体の「分」を合わせて自分だと定義すると、この「自」は貢献しようと一生懸命の命を尽くしていくことであり、次の「分」はそこではじめて全体と共生していくということを指している。
この貢献と共生とは、つまり自分の命を全体のために尽くしていくことを言いそしてそれを私は自然であると定義する。そういう自然の中で生きていくことを命を見守っていくということであるとさらに定義する。
人は生きている以上、この自分との付き合いをどのように折り合いをつけていくかにかかっているのである。心は、そういうところに置いてあるものであり天の心も自然の心も自分自身の命の置所で決まっていくのであろうとも思います。
私は留学していた時に、出会った立命という言葉、今なら少しずつ理解できるようになってきました。
自分ということを正しく知ることを知命といい、それを天地自然の中で活かしていくことを立命という。
この命の立て方に思想と実践が必要なのです、そして自分というものを理解していく過程で人は絶対的に命が全体によって活かされていることを感知していくのだと思います。
自分だけで生きられないままに自分は生きているということを覚るのです。
そしてそこから如何に自分が命を立てていくかを悟るのだと思います。
今の時代の人たちの多くの自分はこの「自」の方ばかりが目立ちます、もう当たり前の共生関係から成り立つ自然から遠ざかりどれくらいの月日がたったのでしょうか、しかし本来の私たちはこの「分」で和を生きてきたのが日本的根源精神であったと思います。
子ども達のためにも如何に「全体が善くなるように自分の命を活かす」ことをあるがままの自然を通じて学んでいきたいと思います。命は貢献と共生があってはじめてあるのだということを体現していこうと思います。