心を開く2

人は何かの問題を観照するときには、自分の心意がどこに囚われているかを知ることは大切なことである。

例えば、山登り一つをとっても熊や猪のことばかりを考えていたらずっと登山中はそのことが気になり登山路を決めようとしてしまうし、またそういうものに自らで近づいていってしまうこともある。そうではなく事前の準備を尽くしてそうなったらその時考えるというように楽観的にしていると意外と山全体が観えて楽しんでいるうちに乗り越えるものです。

同じく人は何かの問題があるとき、自分の中で取り外せない執着というものがありそのことからどうしても自分が偏ってしまうことで問題から抜け出せなくなったりするものだと思います。

目の前に穴があれば単に避けて通ればいいか飛び越えればいいのだけれど、その穴に落ち込んだことがあることが気になって動けなくなるように、人は過去の経験や体験から得た知識により他の方法が思いつかなくなることもあります。

ついつい分かってはいても動けないのは、そういうものにひっかかってしまうのです。成功体験を積んでいくことで乗り越えられますが、そうはいっても心情としては難しくそれをきっと大丈夫だと信じて見守ってくれる人がいたり、一緒に歩んでくれるだけでも安心して進むことができるようになるのだと思います。

子ども達を見ていたら、何でも挑戦して失敗してはまた立ち上がり、そしてもう一度やってみるというようにできるまで何度でも繰り返し取り組んでいます。最初はできなかったのに、周りを見ながらどんどん自分なりにやっていきながら最後には必ず納得するところまでできるようになる。

そこには素直に物事の実相を掴んでいるような子どもの心が存在しているように思います。そしてそれを自らも子ども心で感じるときは天が自分を導いてくださっている感覚と見守ってくださっている偉大な親心に包まれていることに気づきます。

親という字は、木の上に立って見るという字でできています。

自分がどんなに何度も失敗してもいつも暖かく見ていてくださっているという安心感が、人を前に向かわせ自分でできるようになろうと、つまり心に生きる元気が湧いて出てくるのだと思います。

そういう心はいつも自分が素直であるかということが関係しているように思います。

チャレンジしてもどうしても乗り越えられないときは、方法論ではなくその心境がどうなっているかを問うことがコツのように思います。壁があるのは、壁を受け容れないことから発生してしまうのだと思います。

そしてそれはやはり素直な心であるかどうか、自分が融通無碍に何でもオープンに心を天や周囲へあるがままに開いているかということだとも思います。

しかしこれが本当に難しいからこそ、道を歩む同志や仲間の真価があるのだとも思います。

一瞬一生の出会いやご縁が感動に満ち溢れていると実感できるのだと思います。

私自身も自由に受け容れる自然のような子ども心のままに、同じように困っている人々に少しでも自分の体験を役立てることができるようさらなる素直の境地を目指し心を開く日々を精進していきたいと思います。