何かを行う際には最期まで遣り切るということはとても大切なことである。
それはできるかできないかの方法論を考えているのではなく、遣るかやらないかという成果に対する熱意のようなもので決心しているからでもある。
例えば、何かを行う際に自分がゼロから最期まで全部やると決めているならばそれを自分がやるために最期まで遣り切ることができる。しかしそうではなく、どこかの誰かがやってくれるだろうと思いながらやっているといつも他人のせいにできるところでやっているから方法やメソッドばかりを探し回るばかりで結果がでないまま年月だけが過ぎて流されてしまうことになる。
明日は明日の風が吹くではないですが、毎日、日和見的に誰かのせいにできる場所で自分がいつも流されていたらそのうち事なかれ主義に陥り、結局は何も自分でできない人というレッテルを周囲から張られることになる。
実は結果を出すというのは、何があっても誰かのせいにできない場所で自分からやっているかどうかということがはっきりしているのである。それは、誰かではなく自分がやるのだから自分の頭で考え抜き行動しきっていく中で自らが掴み取ったもので結果をだしていくという方法論ではないところで勝負しているかどうかということなのである。
方法論が出ているうちは、まだまだ何か他の方法があるはずと探し回っているだけで前に進んでいるわけではない。一見、その人は必死に何かをやっているようには見えてもそれは実際にはあまり全体への効果はない。なぜなら人間は自分自身の足で前に進まなければ何かがあった時に他人のせいにしているようではとても自立しているとは言えないからでもある。
全体のために自分が何をやることがもっとも価値があるのかを知り、その役割を自分から果たして成果を出すとは自分が全部やることになっているからできることである。それは言い換えれば、誰のせいにもせず自分が最期までこれを遣り切りますという覚悟と決心ができているということである。
今までの歴史をみてきても、いつか誰かがやってくれるだろうとしてみんなが個々で立ち上がろうとはせずに一部の人たちの努力に期待して待っていればいいという生き方をしている人たちもたくさんいることはわかる。そして今のような時代はその情報量の多さや、単に知識だけで分かった気になればやれるものだと勘違いしているから目先のメソッドや方法論や仕組みにばかりに目が行き肝心な「まず自分から」という発想が欠けてしまっていることも見受けられる。
しかしこれは他人事ではなく自分も関係しているのだからいつまでも誰かがなどと他人任せではなく、「まず自分からやればいい」のである。
仕事も同じく、なぜ「確認」が大事かというとそれが「自分から」になっているからである。
自分から確認するのは、誰かをあてにすることをやめているから自然にそうなっているのであり個々の主体性とは何かといえば、それは全体のために個々のみんながそれぞれに自分からやっていることをいうのです。
根性論でもなく、方法論でもなく、精神論でもない、ただ「自分から」かどうかなのです。
それはつまり、自分の「生き方」の決心であるのです。
子ども達やこれからの日本の未来のことを考えれば考える程に、全体のために自分から考動していくことを大切に模範を示していけるようになりたいと思います。