時代が変化し価値観が多様化する時代というのは、知らないことが増えていくということでもある。それは言い換えれば昔は知っているつもりだったものが時代の変化と多様化によりその定義が異なって本質からいつの間にかズレて間違えになっていくということでもある。
特に、時代が形成した誰かによって意図的に強いられた価値観が正しいことになってしまっているとそういうものに気づくのには大変な時間がかかるものでもある。目から鱗が取れるような体験がなければ一生涯気づかないなんていうことも往々にして起きるのである。
例えば、教育とは何か、社員とは何か、健康とは何か、食べるとは何か、遊ぶとは何か、そういうひとつひとつの質問をその人に投げかけていくだけでもその人がどの時代の価値観のままにそれを定義しているかがすぐに分かる。
新しい世代や、刷り込みのない人は、それを常に自らの頭で考え抜くことで自らで明確に本質的な定義を持っているものである。しかし今やITを使った情報化社会で安易に知識をすぐに得ることができるから自分がまるでそれを知っているかのように錯覚し、実体験からの体得しようとすることを怠り、本質が分からないままで横滑りする人が増えているのである。
学校の勉強と同じく、知ってはいても分からないという愚をおかしていつまでも知ったかぶっているだけでそれ風に見せるようなことがまるで当たり前であるような風潮さえもある。知っている人が偉いとなったら、それは誰でもすぐにちょっと知識と暗記ができれば偉い人になってしまう。そんなはずはあるわけないのです、そういうことを当たり前にしているからいつまでたっても知らないことを知ろうともしないでただ闇雲にズレていることに気づかないままになるのです。
うまくいかないのは、知ることで終わらせているからであり知ろうとし続けて体得するまでやってみようとしないからです。知ればやらなくていいことが前提で、何かを自らの頭で考えることなどはできません。そういう楽して何かを得たような高揚感は、まるで麻薬中毒のようなものと同じなのです。
知らないというのは、体験しようと思うことであり、体験を通じて数々の失敗から自らで考え抜くことで人ははじめてその意味が本当は違っていたこと、知らなかったことに自らの理解で本質に気づくのだと思います。
他人から又聞きしたものをきっとこうだろうと鵜呑みにするから刷り込みにやられてしまうのです。体験してもいないことを知識だけで得ようとしますが、そんな楽な方法では体得することなど誰にもできないのです。
教えるということはとても難しいことで、単に知識などの頭では理解できないことを教えなければなりません。昔の職人さんや師弟関係は、現場を一緒に共有しその中で伝授したり以心伝心に理解を促したりしながら本来の一番理解しなければならない本質や実相、その仕事のコツとも言える地味なことをすべて体に教え込んできたのだと思います。
またそれが学ぶ事だということがはっきりとあったのだと思います。
しかし今は、何でも言葉だけや知識だけで詰め込んで人を動かしてそれっぽくしてきたから本質を自らで掴もうとはせず頭ばかりを働かせて身体を動かさず智慧も働かないということになってしまい、まるで知識中毒になってしまっている人たちも増えているのです。
知識を得ることは、やってみたいことがあったり、やることがあるから参考にするだけであってそれは原則や真理の学び、言い換えば自然との出逢いのために行っているとも私は定義しています。しかしそれを単に楽をしたいことが前提でやるというのはいつまでも知らないことに気づくことがないことを意味しているのは、森という説明は知識でできるけれど、森に入って森を理解することがないということと同じことなのです。そんなのは、まず森に行き、森から学べばいいのです。森に行く前に知ろうとするのは、自分の体験をショートカットして楽をしたいところからきているのだと考えればいいのだと思います。
人は失敗を通して学んでいくし、分からないからこそ知ろうと挑戦するのだと思います。そして真の楽しみとはそういう体験していく中で充実感とともに得られるのだと思います。
多様な価値観と変化の時代は、常に自らの体験で本来の意味を学び直す必要があるのです。本質を自らで掴む力が今、一番衰えてきています。だからこそ子ども達にももっと体験できるように見守り、ゆっくりその本人の実体験を深く味わって本質を自ら掴んでいけるようなゆとりのある時間を用意してあげることだと思います。
自分の体験して掴んでいないものを安易に分かった気にならないことは学問の本義であろうと思います。まずは身近なところからその大切さを忘れないためにも、日々に新しいことにチャレンジして実践を楽しんでいこうと思います。