好きなこと

子どもの頃、自分のやりたいことを制止されることほど腹立たしいことはなかった。
何をもって子どもかと言えば、好きなことをさせてもらえることが子どもだと思っていた。

それを大人たちは理由も説明もせず、いきなり制止して自由を奪うようなことをする。
そのことにとても傷つき泣いていたことも思い出す。

子どもの頃は誰しも、自分のやりたことが見守られ、好きなことをさせてもらっても大丈夫といった大自然や偉大な親心というものを身近に感じていたように思います。 それが次第にやってはいけないことが増え、周りを見てはやってはいけないのだろうと億劫になっていく中で次第に世間の言う大人になったのだろうとも思います。

なぜ子どもがあれほどまでに好きなことをしたいかというのは、そこに天命への気づきがあるのではないかと私は推察しています。自分に与えられた天からの命がそれをさせるのであろうとも思います。

人間は生きていく中で自分にどのような天命があるのかを探し、道に出逢いついに辿り着いていくものであろうとも思います。ではその道はどこからがはじまりでおわりかと考えれば、生まれてきたときがはじまりで死がおわりであると一般には定義されます。

しかし実際の道は、いつまじまりいつおわるかもなく円環しているように無限に続くのであろうとする直観もあります。だとしたら、生まれたときにはすでに道に出逢っているのが子どもであろうとも思います。その子どもに道を忘れさせたり、その子どもに道を外れさせるのが大人のやることでしょうか?

大人は自分自身がまず道を歩み、その道を通じて子どもと接するのであれば当然見守ることが最善であるのはすぐに気づきます。子ども達のやりたいことを好きなことをやらせてあげるというのはその子が天命を知り、天命に生きるためには必要なことであるのです。

今の時代は、あんなに幼い初心な魂にまで余計な刷り込みを当て込みその子たちの大好きなことを我慢することから教え込んでいきます。もう少し発達というものの奥にある本質や秘宝をよく鑑みて学び直すことだと思います。

私の仕事はやはり終始一貫子ども心を見守ることに通じています。
それは天が天であることを知り、天を大好きなままでいる子ども心がそうさせるのだと思います。

人間がみな、自分の好きなことをして生きられる世の中が幸福な世界であると思います。
この好きなことは感情の好きではなく、天が与えた特別な好きであることを言います。

まだまだ自分自身の実践を積み上げていこうと思います。

実践学問

学ぶというのは、自分のためにするものと他人のためにするものが世の中にはあります。
しかしこの・・・のためとするこの・・・のためという言葉に誤解がある気がします。

これをもう一度、自分の体験に照らして学ぶとは一体どういうことなのかという本質を思えばそれを紐解くことができるように思います。

自分の体験で学んだというのは、誰かのために学んだのではなく、自分の未熟さゆえに出来事が起き、その体験を通じて真実に気づき学び得たともいえます。それが自らは体験もせずに単に知識を得たのは自分が学んだのではなく、それは知っただけであり気づきは得てはいません。前者は自分の体験によりその辛酸をなめた失敗から自分自身が学び磨かれて玉になっていき、後者は他人の体験のために学を使っているのだから自分自身は学ぶことも磨いたわけでもないのです。

しかし世の中では学ぶのは最初から他人のためにしている人がほとんどで、自分が学問をするのは自分のためではなく誰かにその知識を使うためにとなると一向に自分が成長していくことはできないのは自明の理です。そのために学んでいるものになっては、いくら真理の言葉に出逢っても、いくら偉人の格言を暗記したとしても、自分を磨くことはできません。やっぱりどこからどう考えても、自分の体験に役立つから学ぶのだと思います。

他でも学校では変なことが沢山起きています。例えば、挨拶をするのは自分の礼儀を弁えて心身を正すという自分を修めるために行っているはずです。しかしそれが、誰かに挨拶をさせるために自分が挨拶をするというのは自分のためではなく他人のために挨拶し心身を正させようとするのだからその挨拶は他人のためにということになっています。また本人が人生の中で挨拶をしないことでどれだけ社会で生き難くなるかを体験してからはじめて礼儀の大切さというものを学ぶのであろうとも思います。

そのような体験もしていないし、自分を磨くために礼儀があるとは思わない人にいくらそれを何度も教えても分かるはずはないのです。やっぱり自分の体験した人が、それでは失敗したのだとその人自身が自らを磨き修正しているからこそ周囲は感得していけるのだと思います。

つまり学ぶというのは、最初から自分のために学ぶのであり、言い換えれば自分が学ぶことでしか他人のためにならないということが学ぶということになっていることを言います。

吉田松陰先生が遺した講孟余話にこういう文章があります。
このブログの内容からしても、教えるためではなく自戒のために書きますが

『人の師とならんことを欲すれば、学ぶ所己が為に非ず。博聞強記(はくぶんきょうき)、人の顧問に備わるのみ。而して是(これ)学者の通患(つうかん)なり。吾輩(わがはい)尤(もっと)も自ら戒むべし。凡そ学をなすの要は、己が為にするにあり。己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。而して己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自(おのずか)ら人の師となるべし。人の為にするの学は、人の師とならんと欲すれども遂に師となるに足らず。故に云わく、「記聞(きぶん)の学は以って師となるに足らず」と。是なり。以上三章、人の毀誉に拘わらずして己を脩(おさ)め実を尽くし、言語を容易にせず、実行を以って自ら責任とし、人の師となるを好まずして己の為にするの実学を脩むべきを云う。意並びに相似たり。皆己を脩め実を務むるの教えなり。』

これは『他人の師となることを望んで学ぶ事は、自分を磨くためのものではなくなる。物事を広く聴き知り、知ったり記憶するための学問をすれば、他人の顧問や質問に答えることだけで自己満足するために学ぶことになってしまいます。これは、学者に共通する弊害です。このことを私は何よりも戒め気を付けていることです。そもそも、学ぶということ自分を磨き、人格を高めるためにするものであるのです。自分のために学問をすることは、志のある人がする学問なのです。他人を満足させるための学問は、とるに足らないような人間のする学問であろうと思います。自分を磨くための学問は、願わずとも自然に望まれるように人の師になってしまうものなのです。ところが、他人のためにする学問は他人の師にいくらなりたいと思っても、結局は他人の師となることはできません。だから孟子はこう言っています。「単に古い書物を読んで暗記してそらんじている人の講義は質問を待つだけで聞く人の意欲や学力を考える事もできないので師となる資格はないのです」と』

自分の教えようと思う心や、教えてやろうといった気持ちに実学にならない傲慢な気持ちが隠れているのではないか、深く深く反省します。実際は、何のために日々の学びがあるかといえばすべてにおいて自分を磨き修めるために道を志、同志と歩んでいるのだと思います。

それは決して分からない人を分からせるのではなく、出来ない人と出来ようとさせることではなく、ただ思いやりと真心で自らが学び続けて実践を示していけばいいのであろうと改めて思うのです。

この実践の学問というのを私は実学と呼びます。そしてこの実学の鑑のような方が、私が師と仰いでいる人物であるのです。それなのに私の中にはまだまだ自分の体験してもない出来事をさも知っているだけで諭そうとしたりという高慢な気持ちがあることに気づきました。わたしはまだまだ本当に分かっていないことばかりで未熟なのだと痛感することばかりです。

いつも生き方の初心、誠心誠意、自分から真心を尽くして愛を実践していくことで自他を丸ごと幸せにしていきたいと心願を立てたのが私の志でもあります。子どもたちのために、自分を磨くことを怠らず受け容れて学び実践していきたいと思います。

有難うございました。

傲慢と謙虚

若気というものがある。

自分の実力もよく分からないのに、他人よりも凄いように見せたり、自分は他と違うのだと露骨に自分から見せようとしたりなどもすることもあった。

自信のなさから私も自分は特別な存在だと自分に言い聞かして、周りを見たりして失敗することも多々あった。若気から未熟なその姿勢があるせいで周囲からは嫌われたり、軽蔑されたりもしたこともたくさんあった。

それでも特別を自分に言い聞かしまるでそれを隠すように演出をして、自分をより大きく見せようとしたりしたものです。ただ年を経て、本当の実力がついてくるとそういう気持ちはなくなってきてより他人の凄いところが感じられるようになってきます。そして次第にそういう他人も実はもっと凄いではないかと思えるようになり、竟には自分もこういうところが凄いのではないだろうかと思えるようになってくる。

不思議と他人と違う、自分が特別ということを思うにしても、相手に矢印を向けて自分は普通の人ではないというのと、自分に矢印を向けて自分は普通の人ではいけないというのではまったく意味も意義も異なっているのに気づくのです。

何が言いたいかといえば、「自分が普通の人よりも特別と思うのは間違っていることで、自分が普通の人と同じではいけないのだ」と思う方が本来の自分への叱咤激励であるのだと思います。先の方は、傲慢で高慢なだけで、後の方は、謙虚に自立しようとしているのです。

先日、また吉田松陰先生との邂逅の中で先生が18歳の時に詠んだ覚悟に出逢いました。

そこにはこうあります。

「自分は、俗人ではないと思うのは間違った考え方で、俗人と同じになってはいけない、と考えるのが正しい。自分を俗人と区別する考え方の中には、おごりたかぶる姿勢があり、後者は激しく奮い立つ姿勢である。」(未焚稿より)

よく自分は他人とは違うと自分を語る人はたくさんいるし、そういうふうに心で思っている人にもたくさん出会います。それが志からのものであるのならば、本来は自分は他人と同じではないけない、もっと自分を奮い立たせて努力精進しなければと自分を特別に律していくことが本来の姿であるのです。

私も大いに反省したのは、自分は特別だと思うところのどこかには普通の人ができないことをできるのだと言い聞かせて特別なのだと思いたい自分がいるのです。それでは、決して本来の自分を特別だと努力していくことはできません。

自分が特別だと思うとは、自分が普通の人のように目先だけの安楽や安逸を貪り怠り、楽をして甘えて時間をただ浪費したり、世間の風潮に流されたり、大衆の一般的な価値観に囚われてしまい、自分らしく生きていくことを諦めてはいけないと自分を奮起激励していくことのためのものであるのです。

普通であるかそうではないかの自問自答ではなく、普通になってはいけないという流されてしまいやすい自分に檄を飛ばすのが本来のその言葉の使い方だということなのです。

普通とか普通にできるできないとか、それは全部外の世界の比較対象の中で少しでも自分が価値があると思いたいということになってしまえば、自己満足で止まってしまうものです。

当たり前のことを当たり前以上に行う人や、普段なかなかできそうできないことに丁寧に丹誠を籠めて行う人や、すべての日常に思いやりや真心で仕事に取り組めることなどこういうことができる人こそが謙虚に正しく学問をしているともいうのだと思います。

まだまだ気づくことばかりの日々です、実践を増やし普通ではいけないと志を心にしっかりと定め克己奮起して学びを正していきたいと思います。

 

心の太陽

日々に太陽は昇り様々な生き物たちに暖かい日差しを与えてくれる。
世の中がどのように動こうが、この日の光はいつまでも変わることがない。

過去から今、そして未来、いや永遠に太陽は生命の一部として燃え続けているのであろうとも思います。漆黒の宇宙で、火の星と水の星が隣同士にあってその間で私たち生命は営み続けているということに偉大な不思議さを感じてしまいます。

当たり前と思って誰も疑問に思わない程に、大きすぎる存在とはこの火や水、土、気、風などといった摩訶不思議な存在に対してです。その存在と一緒にいるということ、その存在が生きているからこそ私たちも生きていると思うと、死というものはないのではないかさえ思えます。

循環していく日々の中で、この太陽が照り続けているということがすべての主軸でありその光に対して私たちが合わせながら変化に応じているのであろうと思います。もしこの太陽の恩恵がなかったとしたら、今私たちが悩んでいる人間世界の様々な移り変わりなどどうでもいいほどに感じるのではないか、もしも明日太陽が昇らないと知ったら今私たちが迷っているすべてはどうでもいいことになるのではないか、そう思えるのです。

太陽の恩恵を思うとき、それだけでもすべてが満たされていくのを実感します。
あの陽の光こそが、私たちの命を暖かく包み込んでくださっている。

すべての生命はみんな太陽からの恩恵を受けているともいえます。
ただ光っているのではなく、ただ照らしているのではない、そしてただ明るいわけではない。

それを感受できるセンスやそこへの至高の歓喜があってこそ子ども心であるのだと思います。
子どもはみんな太陽の下、元気はつらつと健やかに安寧に遊んでいます。

遊び心もまたこの太陽が用意してくださったものなのでしょう。
たくさんの陽を浴びて、体調も次第に善くなっていくように心もまた満たされていきます。

感謝

義勇の魂

勇気というのを感じてみるとき、そこに怖さというものがある。
維新回天の原動力になった志士たちが命を懸けて取り組んだことに共感してみる。

すると、その時代時代の既得権益や既存勢力に挑むのだからとても怖いことであるはずで今でいえば想像でしかないのだけれど様々な国家権力や暗殺、集団からの異端視、そこに家族がいて、愛するものたちがいて、色々な差別などもあったはずです。

それでも為したいと思うことがあり、様々な犠牲のもとに大義を貫くということがどういうことか、考えただけで環境だけをみると恐怖です。

しかしかつての偉大な大義に生きた志士たちは、それでも大事なものを守ろうとしました。
その大事なものが自分を超えたものだからこそ、天の意志を感じたのだろうと思います。

人の世の中には絶対的に存在しているルールがあります。
それが義であると思います。

世の中が乱れるのは、その義を重んじず、私我により自利を貪ることより起こるのだと思います。
しかし人は世の中の価値観や人倫が義よりも私我が蔓延る時代は長い物には巻かれよと生きやすい方を選びます。

そういうことではいけないと素直に感じた人たちが、勇気を出すことで変えたのが歴史であろうと思います。このままではいけない、大義があるからこそ為すべきであるのだと本気で生きぬいたからこそ今の私たちが平和に存在しているのだろうとも思います。

犠牲が無駄になるとは何か、それはまるで武士であれば敵討ちをしようと思うのではなくさっさと忘れてしまえと集団的無責任をいわんばかりにそこからまったく学ばないからおかしくなるのだと私は思います。犠牲を払ったのだからこそ一人でも多くの人たちが義に目覚めて改善し続けていくことこそその恩に報いることであろうと思います。

今の時代もいつまでも権力争いは過去の歴史と等しく行われます。
政治が乱れ、人心が乱れ、世の中が荒廃していくのはまったく同じ流れです。
そしてまた繰り返し犠牲が生まれるのです。

その犠牲者たちが報われるよう、そしてこれから犠牲になる人が増えないようにすることが今の私たちの本来の大義であろうとも思います。

人は守りたいものがあるとき、はじめて勇気を出すのだと思います。
そしてその勇気はやはり義の上にあるものであろと思います。

この国は、三種の神器に武士道を鏡としていた時代もあります。もう一度義勇軍ではないですが、新しい仲間たちと世の中を易えるために邁進していこうと思います。

循環の視野

全ての物にも捨てるものがないように、すべての出来事にも捨てるものはない。そもそもこの国は、八百万の神々といった信仰があり、勿体ないという言葉もまたそういう精神から発生したものであろうと思う。

捨てないということはどういうことかと言えば、それが循環し続けているということでもある。

そもそも捨てるという概念はどういうものかといえば、捨てるとは途切れさせるということでもある。リサイクルなどと言われるけれど、人間が何かのために利用して価値のある部分は用い、価値のない部分は用いないという考え方自体が循環に則っているとはいわないのです。

万物具有の徳ではないけれど、全体を俯瞰した時には必ず何かのお役にたっているからこの世に存在しているともいいます。それが一部分を切り取った狭い視野のみで活かそうと思えばやっぱりそれは活かせなかったりするのです。

つまりは、捨てるという概念自体はとても狭い視野であるともいえます。

人で例えてもどうかといえば、社会全体を観た時にその人がどのような役に立つことが幸せであろうかと考えるとき、その人に一番相応しいところに居ることが社会のためになったりもします。

そしてそれは決して人間の狭い視野や自我欲で勝手に判断したりしてもマッチングすることはなかなかありません。なぜなら狭くない視野とは、天の視野であるからです。天の視野とは、天を信じて人事を尽くしていくなかではじめて得られる境地であり、自分の与えられた場所で精一杯遣り切っていけば自然に次の扉が開くように、全身全霊の自分の努力精進があってこそはじめて天の視野を感じることができるのであろうとも思います。

こういう風に、循環の視野とは全体を通して自分の布置を感じることでありそういう気持ちにいつも自分を保つのに勿体ないや捨てないという実践が在るのです。

世界で緑が消失していくのは、こういう循環を途切れさそうとする人間の浅はかな視野の狭さが邪魔をしているからだとも思います。

何よりもこれからは、循環や繫がりを感じる生き方を優先する人を増やしていくことで本来の天の視野を持たせていくことに意義があるのだと思います。そしてそれは道の入り口に接する一期一会の出逢いを増やしていくことであろうとも私は思います。

子ども達には、この先に迷うことがないように自らがまず実践し示していこうと思います。

道の心得

吉田松陰の留魂録があり、高杉晋作との関係も含め改めて繰り返し辿りながら見直してみるといろいろな改めてわかってきます。

天と通じる真心で誠を実践し続けた先にその生死を超越した本分を尽くしたことに私たち人間はとても魅了されます。

人は、それぞれに寿命があり長くても80年くらいで短ければこの世に出でてすぐに亡くなってしまう人もいます。事故であったり病であったり、その他様々な理由で人はその天寿を全うするのだと思います。

その天寿を全うするにおいて、如何に自分が天から何を命じられているのかを知りそれを純粋に遣り尽くしきっていく姿そのものが天を信じる人、つまりは至誠であるからにして周囲からすれば畏怖すらも感じるほどに尊敬されるのだと思います。

人間も生命なのだから天や自然に正対するとき、そこにとても威厳や荘厳といった畏敬を思うからです。

この吉田松陰と高杉晋作の死生観の共有しているものがひとつあります。
もともとこの二人は、心の友でありそれは本人たちも書き記しています。
松陰にして、晋作だれよりも私の心を知ると言い、晋作も先生をずっと慕いてようやく野山獄といった言葉もあるように、二人は何よりもその志において同一化していったのだと思います。

そこからその死生観を示したのが易回転の源泉になったのだと思います。

その二人の、邂逅の手紙の中の一説にこう書かれています。

「貴問に曰く、丈夫死すべき所如何。僕去冬巳来、死の一字大いに発明あり、李氏焚書の功多し。其の説甚だ永く候へども約して云はば、死は好むべきに非ず、亦悪むべきに非ず、道盡き心安んずる、便ち是死所。世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。又一種大才略ある人辱を忍びてことをなす、妙。又一種私欲なく私心なきもの生を偸むも妨げず。死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言うべきを言ふのみ」

私の意訳だけれど、「あなたは私に問いました。志士として死ぬべきところはどこでしょうか?と。昨年の冬からずっと投獄されてからその死について私は大きな気づきを得たのです。これは李氏焚書にあるようなものです、その内容は長いものなのでそれをまとめれば、死は好んだり憎んだりするものではなく、道の実践が尽き心が安んじるときこそ死に所とあります。世の中には、生きていながらもまるで死んでいるような人たちもいます。そして、たとえその身が滅んでもいつまでも魂が生き続けている人もいます。実際に心が死んでいるようでは、生きていてもあまり意味がありませんし、魂さえ生き続けているのならば例え死んだとしても意義があります。また、偉大な人物が恥を忍んで辱めを受けつつも竟にはその大事を為してしまうのはとても不思議なことです。そしてまた私心私欲がない人の生涯は決して誰にも邪魔することができないというものもあります。つまり言いたいのは、”死んでも不朽の見込みがあるのならばいつ死んでもいいのです。そしてもしも生きていた方が大業の見込みがあるのならばいつまでも生きていればいい。”私が言いたいのは、生死は考えずに『一心になすべきことをなす』だけでいいのだということです。」

以上のことから自然の中で天命に生きるということがその死生観であろうと私は思います。

天は妙なるものがあります、まるですべてを見透かしたかのようにすべての出来事をまるですべてを知っていたかのようにふるまってきます。その都度、自分の小さな浅はかな考えが如何につまらないものであったのかを思い知る日々です。

そしてこの今もまた、つまらないことに囚われてしまう自分があるのです。

死生観を持ち、歩み続けるのは道の心得でもあるのだと私は思います。
その道の心得を持ち、共に歩み続ける事ができる同志がいることに無常の安心を覚えます。

私が心惹かれるのは、その道の心得でもあるのです。
どのような時代に何を為すかわかりませんが、天命を学び燃焼しきっていきたいと思います。

 

実践体験

誰かの体験を自分が代わりに行い、それをやってみせて教えるというのは大切なことである。簡単に言い換えれば、自分が体験したことを他人に伝えるということである。

自分がやってもいないのにさも体験してきたかのように話す人がいるけれどそれが評論というものである。分からないものは分からないとし、素直に自分の実践したところまでを話すのならいいけれどそれをさもたくさんやってきたかのようになって知識のみで分かった気になるのが頑固者というものでもある。

頭の固さや柔軟性の欠落というのはこの新たに体験していこうという挑戦する気持ちが前に出なくなるからでもある。自分の今に執着し失敗を恐れて分かった気になってしまえば、人間の頭はすぐに固くなってしまい融通がきかなくなるから世俗の評論に流されやすくなるのであろうと思います。

自分でやってみて、感じたことをまず信じるというのは自分の実践からの体験を優先するということになります。また自分の心がどのようであるかというものを優先するということでもあります。

例えば、自分が過去に大きな失敗をするとします。それから学び得た実体験の気づきを、そのままに同じような失敗をした人たちに伝えていけばそこから必ず共感や共鳴が生まれその体験からの気づきは以心伝心に伝播しいつまでも人の心に残ることになります。

以前、沖縄で戦争体験を語り継いでいるある「おばあ」の話をクルー全員で聴きにいきました。
その時の内容も、またその体験も生々しく改めて戦争の悲惨さを思い知りました。
何度も本を読むよりも実体験した人の話をそのままに聴くことは心にいつまでも刻まれます。

また自分の心がどうあるかといえば、日常ですぐに実体験が出てきます。例えば、余裕がない人では他に余裕を創りだすことはできません。また自分が豊かでない人は、他を豊かにすることはできません。自分が心底、楽しんでいない人は他に楽しみを与えることもできません。つまりこのように、自分の心の状態がそのままに体験として他に影響を与えるのです。

つまり誰かの余裕を奪うのは自分が余裕がないからであり、誰かを迷わせるのは自分が迷うからであり、誰かを苦しめるのは自分を苦しめるからであり、誰かに妥協を感じさせるのは自分が妥協しているからなのです。この逆をすれば、皆が善くなっていくのです。そのための実践、そのための心の修養であるのだと私は思います。

そうやって人道の法則として自分がどうしているのかでしか、人には伝えることはできません。
だからこそ、自分がどうあるかということに自分が誰よりも真剣に生きる必要があるのです。

それを実践体験とも言います。

その実践体験がどうなっているのかを誰よりも知っているのは自分です。
その実践体験をしたのはなぜかを深め、それを如何に世の中へ還元するかが使命なのです。

自分というものは世界に独りしかいません。
だからこそ、実践体験ができるのもその人だけであるのです。

その実践体験を誰よりも深く高く厚くするのは、その人の純粋な本心や理想によります。
子ども達のためにも、実践体験を少しでも多く譲り正しく使命を果たしていきたいと思います。

真の教え

毎年、萩にある松陰神社の松下村塾やその墓前に、その歳その年に起きたことから気づいたことを確認している。もうかなり前より、その志に共鳴してからなぜか自分でも不思議であるけれどずっと18年も続いているから何かあるのだろうと思っています。

私は本業が教育や保育に携り、私の理想としている教えが松下村塾にありました。

子どもの頃は、自分の体験したことばかりにすぐに感激し何度も何度も感激したことを思い出すとその時の思いで溢れていくという気持ちになっていました。しかし、それを体験してもいないのに机上の文章で学びだしてからは勉強が面白くなくなり、はみ出し者のようになってしまいました。

小さなころは野山を駆け、自然の中で起きる様々なことから学んでいました。そこでは不思議に怪我もあまりせず、また実体験からの怪我からも痛い思いもし、悔しい思いもしたけれど、実体験を積んでいくうちに好奇心はどんどん膨らみ、そのドキドキワクワク感がリードしていく中で自分の生き方を学んでいました。

真の教えとはいったいなんでしょうか?

私には尊敬する先生たちが沢山います。
その人たちはよくよく観察すれば、すべて実践家の方々です。
偉い人が先生ではなく、正直に心で大切だなぁと思ったことをやっている人ともいいます。

その実践家が自らで体験したことを心で学ぶことが真の教えを自覚することではないか私は思っています。しかし今の世間の教育のおかしなところは、体験してもいないのにさも体験したかのように文面で教えたり、また実践してもいないのに誰かに理屈だけを先に伝えたりするような風潮があります。

先日、子ども達と一緒に北海道にいるある夢を実現している方を訪ねました。

いくら予習しても、いくらその人のビデオを見せても、やっぱりその人に会ってその人の実践を一緒に体験しなければ本当の意味で伝授され学ぶことはできないのです。

実践を通して学んでいくのは、実践でしか学べないからなのです。
なぜなら、真の教えとは体験と体験の間に存在するからだと私は思います。

頭で分かった気になるというのは、そういう体験したことを聴いていないからなのです。
実体験はやっぱり自分の目と自分の耳、自分の心でしか感じることはできないのです。

吉田松陰の生き方は、常に体験したことを伝えることで真の教えと定義していました。
志士たちはそれをすることで「学ぶ事の真の歓びと意義」を共感したのだと私は感じます。
なぜなら私もそうだからです。

留魂録にその種があります。

「  一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ」

これだけの実体験をも私たちに遺していこうとするのは、循環の種です。今年は、この循環や種を極めつくしていくことから学び直し、子ども達のためにも、真の教えが伝授伝法していけるよう精進したいと思います。

親子間

人には発達段階というものがある、自然な流れで発達していけばそのことからその人らしさは自然に引き出されていくものである。

しかし何かの理由から発達ができないようになってしまうと、すぐにそこに歪が生じてどこか無理をするようになってしまう。その発達とは、誰かによって意図的に作られるのではなく本来は自らで融通無碍に発達していく方が自然なのである。

そしてそういう発達こそが、本来のその人らしさを創りあげていくといってもいい。
そしてその人らしさとは、その人自身が主人公となってそれを実現するのである。

今は、それを勘違いし発達というものは他人の手によって行われていると思っている人がとても多い、しかもそれは保育や教育に携わっている人ほど多く感じるのは悲しいことです。

その人らしさというのは、実は他人では創りだすことはできません。それはその人らしさというのは、すべてその人が自然にそれを形成していくからだとも思います。そしてそれを創造するのは、その人が主体でなければできません。その人が主体であるには、その人本来のやりたいことを尊重して丸ごと認めていかなければその人らしさはでてこないのです。

それを誰かによって教育され、こうあるべきだと過保護過干渉に手を加えれば次第にどこか無理が生じてその無理からどちらかが身体を壊したり心を痛めたりすることになるのです。

特に親子間でも多いことですが、愛情がそうさせるのだと思いますが世の中にはそういう親子の問題で溢れかえっています。

しかしよく考えてみるとこの道理が間違っていることはよくわかります、例えば自然でいえば太陽というのはただ自らを燃やし遍く生命に光を照らし続けています。これを親心ともいいます、それを一部の植物が大変そうだからやあの動物が絶滅しそうだからなどといって特別に一部を照らそうとはしません。それに、弱いから鍛えてやろうや、あのままではダメだから自分が見ておかなければなどといったこともありません。

太陽はただ照らし続けるのです。

それに対して、地上ではどうしているかといえば必死に照らしてくださっているのだからと感謝して伸びようとします。自分なりに、周囲の環境がどうであれ自由に自分らしく生きようとするのです。

天と地の道理で考えれば、親子とはまずそうあるべきところが先であると思います。

その上で、今度は人間同士なのだから筋をちゃんと正し、順番を守り譲る事や、御互いに大変だと思いやり助け合っていくのであろうと私は思います。

だいたい親子間での問題は、自然との問題と直結しているのです。世の中の親子間をよくしていくことは、世間をよく治め平和な社会を築くためにも大切なことであろうと私は思います。

だからこそ、親子であるということは、太陽を忘れないこと、天の見守りをいつも感じるところからが筋や思いやりよりも先にあるべきであろうと私は思います。私たちがこうやって生きていられるのは、当たり前ともいうべき太陽の暖かさと水の優しさがあるからです。

そういうところからもう一度、子どもを見守るということを考えていく必要があると思います。