人には価値観というものがある、それはどのようにその人が生きてきたのかという生き方がその人の価値観を決めている。以前も書いたと思うけれど、その価値観を変えるというのは生き方を変えるということでもある。
それともう一つ、同じ価値観という言葉で世間ではひとくくりで言われているけれど理想や理念、夢といったもの、私は「思い」と定義するけれどそういうものがありこれは個人の生き方というよりは天から与えられた命といった方がいいのかもしれない。そういう命の価値観で生きようとするというのは、理想を追い求め妥協せずに自分らしく貫いていく思いを優先するということでもある。
人間界と自然界で例えば、人間界での価値観は個人の与えられた環境下で自らの範囲を定めながら形成していけばいい。しかし自然界での価値観では全体としての役割や使命があるのだから理想高く自分を邁進していく必要がある。
つまりは、自分を如何に全体に役立たせていきたいか、それを志ともいうけれど自分の天命を悟り理想に向かって純粋に「思い」を醸成し思いに生き切ることが命の価値観に合わせるということでもある。
言葉というものは、その定義が異なるとその理解も全く異なってくる。
その言葉がどちら側で使われているかというのは、その人と同じ実践を積むかその人と同じ理想を持つか、その人と同じように天と対話するかできなければ真に理解することはない。
どんなに長い会議を永遠に繰り返しても、その人の理想が崇高で偉大であればあるほどにその人の言葉は天の言葉を語っているのである。天の言葉とは、そういう理想の世界で普段から使われている言葉でもある。
古来、日本では天照大御神が治める天界と大国主が治める人界 がありその中の言葉の定義も全く異なっているものである。結びや有難い、勿体ない、御蔭様など全ては天界で用いられている言葉であり、それを天界の心のままに受け取れる素直な人は理解できても、人界で穢れが入ってくるとその言葉を正しく理解することはできないと同じなのです。
組織の理念や理想は、そのリーダーやトップが思いを醸成することで出来上がってきます。
一緒に何かを行うというのは、その理想や理念の高さを自らの理想や理念の高みにおいて確認することができなければその人の使っている言葉の定義は理解することはできないのです。
単にその人の言葉の意味を解釈してマニュアル化するようなことも行われますが、本来はそうではなく誰しも遠慮なく理想や夢を自由に描いていいのであり、誰しも理念を正直に実践して語ってもいい世の中であるのです、そういう理想の社会を実現したいと思うからこそリーダーは本音で生きて夢を語り続けるのだと思います。
言葉の定義というものは、言葉の定義を暗記するために用いるのではありません。
言葉の定義というのは、「思い」を確認するときに用いられるのです。
この「思い」というものは、無形のものですが何よりも組織では優先されるべきです。
そして皆の思いを一つにしてというのが、バラバラではないということであるのです。
そのためには、様々な困難を通して理想を諦めないというプロセスが育てていくのです。
決断や決意というのは思いをカタチにする行為です。
最後に、知行合一という言葉は今風に解釈されて何だかただ知って行えばいいというのは大きな間違でそれではおかしいと私は思います。本来は、知ることに意味がなく思うことに意義があるのです、そしてそれは実践することで思いは醸成させていくのです。
だからこそ今の時代は、知行合一ではなく「思実合一」というべきであろうと思います。
思いを実践することと、実践して思いをすることではじめて学と道が成り立つのです。
世の中を善くしたいと本気で思っている人は、評論や異論、弁論、批評している場合ではなく自らの思いの実践による提案以外は要りません。何より理想を実現するにはまず自らの「思い」を何よりも醸成するために行い続ける実践が必要であるのだと私は思います。
これからも子ども達のために世界の仲間と皆で一丸となって取り組んでいきましょう。