思い

人には価値観というものがある、それはどのようにその人が生きてきたのかという生き方がその人の価値観を決めている。以前も書いたと思うけれど、その価値観を変えるというのは生き方を変えるということでもある。

それともう一つ、同じ価値観という言葉で世間ではひとくくりで言われているけれど理想や理念、夢といったもの、私は「思い」と定義するけれどそういうものがありこれは個人の生き方というよりは天から与えられた命といった方がいいのかもしれない。そういう命の価値観で生きようとするというのは、理想を追い求め妥協せずに自分らしく貫いていく思いを優先するということでもある。

人間界と自然界で例えば、人間界での価値観は個人の与えられた環境下で自らの範囲を定めながら形成していけばいい。しかし自然界での価値観では全体としての役割や使命があるのだから理想高く自分を邁進していく必要がある。

つまりは、自分を如何に全体に役立たせていきたいか、それを志ともいうけれど自分の天命を悟り理想に向かって純粋に「思い」を醸成し思いに生き切ることが命の価値観に合わせるということでもある。

言葉というものは、その定義が異なるとその理解も全く異なってくる。
その言葉がどちら側で使われているかというのは、その人と同じ実践を積むかその人と同じ理想を持つか、その人と同じように天と対話するかできなければ真に理解することはない。

どんなに長い会議を永遠に繰り返しても、その人の理想が崇高で偉大であればあるほどにその人の言葉は天の言葉を語っているのである。天の言葉とは、そういう理想の世界で普段から使われている言葉でもある。

古来、日本では天照大御神が治める天界と大国主が治める人界 がありその中の言葉の定義も全く異なっているものである。結びや有難い、勿体ない、御蔭様など全ては天界で用いられている言葉であり、それを天界の心のままに受け取れる素直な人は理解できても、人界で穢れが入ってくるとその言葉を正しく理解することはできないと同じなのです。

組織の理念や理想は、そのリーダーやトップが思いを醸成することで出来上がってきます。

一緒に何かを行うというのは、その理想や理念の高さを自らの理想や理念の高みにおいて確認することができなければその人の使っている言葉の定義は理解することはできないのです。

単にその人の言葉の意味を解釈してマニュアル化するようなことも行われますが、本来はそうではなく誰しも遠慮なく理想や夢を自由に描いていいのであり、誰しも理念を正直に実践して語ってもいい世の中であるのです、そういう理想の社会を実現したいと思うからこそリーダーは本音で生きて夢を語り続けるのだと思います。

言葉の定義というものは、言葉の定義を暗記するために用いるのではありません。
言葉の定義というのは、「思い」を確認するときに用いられるのです。

この「思い」というものは、無形のものですが何よりも組織では優先されるべきです。
そして皆の思いを一つにしてというのが、バラバラではないということであるのです。

そのためには、様々な困難を通して理想を諦めないというプロセスが育てていくのです。
決断や決意というのは思いをカタチにする行為です。

最後に、知行合一という言葉は今風に解釈されて何だかただ知って行えばいいというのは大きな間違でそれではおかしいと私は思います。本来は、知ることに意味がなく思うことに意義があるのです、そしてそれは実践することで思いは醸成させていくのです。

だからこそ今の時代は、知行合一ではなく「思実合一」というべきであろうと思います。
思いを実践することと、実践して思いをすることではじめて学と道が成り立つのです。

世の中を善くしたいと本気で思っている人は、評論や異論、弁論、批評している場合ではなく自らの思いの実践による提案以外は要りません。何より理想を実現するにはまず自らの「思い」を何よりも醸成するために行い続ける実践が必要であるのだと私は思います。

これからも子ども達のために世界の仲間と皆で一丸となって取り組んでいきましょう。

ひとつの音

ひとつの土を共有して様々な生き物は存在することができる。
ひとつの空、ひとつの海、ひとつの森、ひとつの地球で私たちは豊かな営みを行っている。

様々な彩る命の光は、ひとつの星になって広大なひとつの宇宙に存在しているのである。

その真理のようなものは生活の様々な場所で気づくことができる。

当たり前と思うものに気づかないようになってくると、当たり前に存在している偉大なエネルギーや恩恵が見えなくなってしまうものです。 その当たり前は、日々の小さなモノゴトも見過ごさない感性が必要なのだと思います。

日々に書き記すブログでも、影響力のある大きな発見ばかりではなく増差もないような発見も沢山あるのです。実はその発見はひとつの夢に繋がっているのです。本業に邁進していく中での休みである趣味もまた旅も、衣食住を味わうこともまたひとつのものとして自分というものを存在させてくれています。

自分と関わるものを辿っていけばいつもひとつのところで響き合っているのです。

そういう微細な音も気づけるような繊細な心はいつも澄むことを尊びます。
日々に気づきを積み上げていくのは、祓いたまえ、清めたまえといった心持であるのです。

毎日、朝の太陽の光を浴びて 、昼の地球の光を浴び、夜の星の光を浴びる。
そのひとつの光が私の命そのものに響いていきます。

聴こえてくるはずのない当たり前の音にいつも心を澄まし耳を傾けていたいものです。
子ども達にもそういう体験ができるよう、前進していきたいと思います。

時処位

時代の変化とともに、その時に必然的に発生した法則というものの理解も変わってくる。
これはまるで、根源は同じでも辿り着く道がそれぞれに異なる事に似ている。

つまりは聖人が如何に色々なことを語り遺したものがあるにせよ、その時代時代に価値観は変化するものだからそれを正しく理解するにはその時代の価値観も理解しその上で正しくそれをカタチにしていくことができる人たちが時代時代を担うようになっているといっていい。

しかし、これはとても難しいことでその時と処と位のタイミングが合わなければ場合によってはかえって裏目に出てしまうこともあるのではないかと私は思う。古の先覚者たちの言動や行動を省みていても、正しいことを信じて行いながらも時代の価値観にあわなければどうしてもその人にしか観えない真実を周りが理解することができずその人を正しく活かすことができなくなっているようにも感じる。

時処位というのは、人間界と自然界との絶妙な組み合わせにより様々な目覚めのキッカケを与えてくれているものではないかと私は思う。

熊沢蕃山のことばの中に、 「山水の地理に通じ、神明の理を知る」というものがある。

これは、太虚といった無や空を体得するのにまずその自然の地理を善く学ぶことでその霊妙な働きや法則を知ることの大切さを説いている。私たちは、もちろん人間の中にいて人間から様々なことを学んでいる。

しかしそれ以前に、私たちの先祖はみんな人間より前のものから学んでいたものがあった。それは私たちを創造したものがどのようなものでそれから自分の大極を理解し太虚というものの中で生命を悠久に育んだともいっていいのではないかと私は思う。

つまりは、過去の聖人や聖賢はいったい何から学んだかということでもある。

時代が変わり、環境が変わり、価値観が変わっても、それでもいつも根源に立ち返れるのはいつまでも永遠に普遍であるものがこの世界にいつも存在することを理解しているからでもある。

そういうものから私たちは何をもっとも大切すればいいのかは、体験がない子ども達へ決して忘れることがないようにと神話に記され語り継がれてきているのです。日本人であればその大和魂とも言える三つの真心によって示されているのは三種の神器を観てもわかります。
これは過去に私たちがもっとも間違いを犯すであろうことを先祖が心配し、語り継ぎ忘れないようにと持戒さしめるために用意したものであろうと思います。

そもそもこの時処位というものがはっきりしていれば、自らが常に潜龍であること尊ぶことができ志気益々盛んに最期まで至誠を貫いていくことができるのだと思います。しかしそういうものを心で学んでいなければ、やはりどうしても時処位に流され後世に実体験としての大切なものを譲り渡していくことができないのだとも思います。

人間は体験したことでしか学べないようにできているのだから、体験したことはずっと体験したものによって心を伝えていく必要があるのではないといつも感じます。

これからも人間はずっと普遍なものに近づき、普遍なものをカタチにしていこうとするのはある種の本能ともいえます。だからこそ、そういう温故知新の気持ちをいつまでも大切にしていこうとするのが人間教育の基本である気もしています。

時処位と正対した先覚者の言葉に色々と深い感慨を受けます。
最後に、熊沢蕃山はこんな言葉を遺しています。

「木がらしに落るもみぢはくちぬともつきせぬ春に華や咲かまし、小夜あらし四方の落葉はうづむともわけゆく道はしる人ぞしる」

たくさんの降り積もった落ち葉をかき分けながら真実の道を辿りそのまま子どもたちに手渡していきたいと願います。

 

 

志士仁人

人は志を高く掲げ歩んでいく中でその人その人で気づきを得るステージのようなものがある。
同じ人を学んでいても、その人の志の偉大さまではなかなか理解できることはない。

自分の志がその人と同期化するとき、はじめて少しその価値や意義を実感できるのだと思います。

かつてこの国ではたくさんの人たちが生まれまた死に、それぞれの本分を尽くしてくださって今の私たちが存在します。当然、名として残っている人もいればそうではない人もいる、その志のあるところよく目を凝らせば随所に様々な遺業は存在しています。

人はなぜ自分以上のことができるようになるのかは、志の有無によるものです。

志があれば、こだわりが生まれ、志がなければ流されていく、志とはその心に一本立った信念や強い思いがその人だけに与えられた天分に近づけていくのだとも思います。

そしてその志をより一層強くしていくための糧は何かと言えば苦悩や憂慮であるのです。
人は色々なことが起き、それを悩む中で本当の自分の思いに触れそれを守ろうとしより一層強い思いを抱き耐え抜くことで志がより鮮明に立っていくのだと思います。そういうことから最初から逃げて安逸をむさぼろうとするのは志士ではないのです。

志士とは、どうしようもできないことやどうにもならないことにも真正面から向き合ってその苦しみを転じていく覚悟があるから志士だともいうのだと私は思います。

熊沢蕃山の歌に下記があります。

「憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身の ちから ためさん」(憂きことよ なおこの上、もっとつもれつもれ。この身でその試練に耐えてみせる。)

自分の身を厳しい環境に置いてこそ、その中でも自分は志を貫くことには変わらないという強い思いが生き方から感じられます。

その熊沢蕃山の思想から紡いだ吉田松陰にもこういう歌が残っています。

立志は特異を尚ぶ、俗流と与に議し難し。
身後の業を思はず、且だ目前の安きを偸む。
百年は一瞬のみ、君子は素餐する勿れ

(志を立てるには、人と異なることを恐れてはいけない、世俗の意見に惑わされてはいけない、なぜなら死後の評価を考えずに目前の安逸を食っているからである、百年の時は一瞬にすぎない、君たちはどうか、いたずらに時を過ごすことのないように)

とある。

人と違うことを恐れないで実行するということは、その人に志があるからなのです。
人と同じことを恐れて、考動できないのはまだまだ志が立っているとはいいません。

自分の信じる道を歩むということは、自分の掲げた理想を追求していくことをいい、それは理念というものを実践し続けて形にしていくのと同じことであるのです。

そのために、 日々のことを大切に取り組み積み上げていく必要があるのだと思います。
最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし
計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。

志を持ってそれぞれ遣るべきことをやればいい、そう聴こえてくるかのようです。
子ども達のためにも全人類のためにも自分のことを大切にしていこうと思います。

学道の実践

理念を実践していく中で、なぜ理念は学ぶのではなく実践するのかということを話たことがあります。
これは学の学と道の学との違いのことでもあります。

そもそも学の学というのは、人間学、経営学、等々、何々学というものはすべてに学とつくものは何かの事象を学術研究したものを他に理解できるように明文化したものであり それは互いの知識として共有できるように体系づけらているものになっています。

しかし道の学というのは、人間道、経営道、等々、何々道というものはその人生の実践や実体験を通した分でしか互いに共有できないものでそれは暗黙知や智慧といった気づきとして構成されているものになっています。

学の学だけでは体験しておらず知識の中だけで単に語られているもので、道の学のように実体験からのものがないのだから、その学ばかりで体験をしていなければ学校での勉強のように詰め込むだけでやった気になっていたり、単に分かった気になっているだけでその実は何も変わらないのと一緒なのです。

道の学は例えば、まるで自らの全身全霊を傾け一心不乱に実直な実体験を通して日々にひとつひとつを深く気づき深く潜り深く味わい、かつ繊細に緻密に丁寧に掴み取るようモノにしていくというように体得していくようなものなのです。

同じ学でも、その学の姿勢に頭でっかちでやるのか、一心不乱でやるのかはまったく異としているものなのです。常に躓いている人の話を聴くと、なぜ思った通りにいかず、なぜ停滞するのか、なぜ軽薄になるのか、なぜ浅く広くばかりで分からないのかと言えば自らそれを本気で実践から学ぼうとしていないからでもあります。

言うは易し、行うは難しなのです。

本気で学ぶというのは、道のことであり、それは挑戦をすることなのです。
挑戦とは、頭で分かったことではなく実体験をすることなのです。

この挑戦するというのは、きっとこうだろうなと知っていることよりもまずやってみようと思うことや、よしやってみて分からなければまた学べばいいと、恥ずかしがらずに他人からの評価も気にせずに失敗を恐れず、果敢に高い目標に挑んでいくことではじめて学ではなく道に入っているともいえるのだと思います。

この道を行うというのが、「実践」ともいい、理念も同じくただ理念を読んでいれば理念が分かるようになることはありません。よく実践とは、ちょっとやったら実践だという人もいますが実践というのは道の実践であることを忘れてはいけません。

それは道を行うために理念を用意しているとして、その場合の理念とは行動と必ずセットで紐ずいているものであり、理念をただ知っていることだけをやっているだけではそれは決して理念を実践しているということではないのです。

理念の実践とは、自分から挑戦していく中での主柱であったり、自分から考動していく中での中心軸としてはじめて理念を実践する意義が生まれます。何も挑戦も考動も行っていないのに、理念を分かるようになりましたなどということは絶対にないのです。

目標が崇高で高いからこそ、一生懸命に立ち向かう必要があるのです。
そしてその目標こそが理念に記されているのです。
それを実現するには、果敢に挑んでいっても敵わないものばかりに出逢いその困難に打ち克つときにこそ理念の本質がその人に観えているともいうべきものであるのです。

人は高い目標に真剣に打ち込むときだけ成長します。
そしてその対価として得られるものが智慧であり、その時に残る智慧というものは自分で果敢に挑戦して体得したからこそはじめて自分の中に残るのです。

今の時代は、すぐに知識ばかりで分かった気になり挑戦はしないという人が増えています。むしろ、知識があるから先に結果が分かっているから何もしないという人もいます。

真の学びというものは、たくさんの失敗により生まれます。

それは例えば、子どもが生まれる10か月と10日の間に、46億年の地球の歴史のプロセスを全部胎内で経て今の人間になるように、すべては何度も実体験からチャレンジして遺伝子が今のカタチを生んだのと同じなのです。

体験なくして、それをショートカットしようとするのは人類や世界のために自らを成長することではないのです。色々な恩恵を受けて今の自分の存在があるのだから、成長することは恩を忘れないでいることに繋がっているのです。

だからこそ人は何でもやってみたことのないことに挑戦すること、それを増やせばそれがやってみたいことなのです。しかも誰もできなかったような不可能に挑戦するときこそ、実は理念をもっとも必要とするのです。

理念は、自分が迷ったとき、いや言い方を変えれば自分がどうあるべきか何のためかを自問自答する際の最高の環境を用意してくれるのです。

理念があるから大義が出てきますし、大義を貫くからこそ信念が生まれてくるのです。

まずはその理念を実践するというのは、新しいことに挑戦するという意味なのです。
やったことに無駄はありません、それは理念をちゃんと持っているからでもあるのです。

言葉ではなく、カタチにしていくことは挑戦した姿が次第に周囲に顕われてくるのです。
どんどん成長する方を優先して、至高の目標に向かって自分を進めていきたいと思います。

自然界と人間界4

今、生きているこの人間界でなぜ中庸が尊ばれるかといえば元々の存在として自然界の中に人間界があるからでもある。

この自然界というものは、天道といった元々あった根源的な生命連鎖受容循環の恩恵そのものの中で私たちはそれぞれに生死の中で命の営みを永続することができている。つまり私たちの人間界はそもそも自然界の命の営みの中で人間界という人間文明だけの世界を構成しているということになっている。

例えば、人間界同様に野生にはそれぞれの世界があり、サル界をはじめイノシシ界、スズメ界、鯉界、杉界などなど、書けば膨大な数になるけれど名前をつけられるほどに様々なそれぞれの世界は自然界の一部として日々に生まれてはまた消えているのであろうとも思います。

その中で私たち人間界も同じく存在しているのですが、今の課題はその自然界がまるで人間界の一部として真逆に見定めてしまうという勘違いが横行してしまっていることなのです。人間界の一部として自然界があるのであれば、前述したようにイノシシ界の一部に自然界があることになります。

それではもしサルがその自然界を独占できるかといえば、複雑に調和で組み合わされた自然をコントロールすることなどは絶対不可能なことで、それはただ一部のサル山のみを征服したことが自然を独占したと勘違いしているだけで全体の自然界から見ればどうしたこともないのです。

しかしそのサル山がいかにも自分たちの自然であると定義し、そこで生活できるように様々な動植物を飼育し人間界での営みを行おうが自由ですが問題はそれを広げ過ぎて地球全土に行き渡りまるで自然を征服したようなことをやろうとするからおかしなことになっているのです。

傍からみれば、動植物たちにとってはサルが何かサル山を拡げているのは分かりますがそれぞれの世界を侵食してサル同士の世界を自然界すべてに網羅しようとしているのは調和というものから反するので問題が起きるのです。もしサルがそれを気づけない環境があるとすれば、サルが本来の在るべき姿を目先に囚われず本質を忘れないような学びを継続していかなければなりません。

なぜ中庸である必要があるかと言えば、自然界の中で存在している人間界なのだから半分は自然界、その一部として存在している人間界での営みが半分なのだからそのちょうど中間にいることを忘れないように中庸であることを学び続けるのです。

言い換えれば、なぜ学ぶのかといえば、自然界の中に人間界として存在させたことでバランスが必要になりそれを忘れないようにするために学ぶともいえます。そしてその人間界が自然界の中で正しく存在できるようにと人間学があるのだと私は思っています。

人間が正しく調和するのは、自然の一部であるからです。

そういうことを忘れないためにも、自然界のことを学び人間界をどうするかを考えなければなりません。今は、まさにその自然界から隔離さらた人間界のみの原理でのみこの地球で営めると思っていますが私たちが気づかない場所にたくさんの野生の生命が存在しているのです。

その野生の生命たちはお互いに一定の距離感を保ち、それぞれを育てているのです。大自然は万物を保育しているのです、だからこそ人間の道として見守ることは何よりも大切なことであると思います。

自然界と人間界での調和のカギは、私たち人間の生き方にかかっているともいえます。まだ間に合うというよりは、いつでも気づいたら改めればいい、しかしそこには正しいことを行う勇気が必要になるのです。 今まで築いてきたものを壊す勇気は、子ども達に譲っていくためだとしそこからもう一度やり直せるかがこの大転換期の肝であると私は思っています。

今年はまだまだまとめていきたいと思います。

自然界と人間界3

元々集団で生きている動物に猿やチンパンジーなどがある。
人間がよく例えられるのは行動が似ているからでもある。

例えば、先日ある農園で最近イノシシやシカやタヌキなどが、畑を荒らすという話をしていたときに彼らはまだましでもっとも面倒なのはサルだと口を揃えて皆が話をしていたのを聴いた。それはなぜかと話をしていると、道具を使う上に狡猾だからだと話をしていた。

まるでどこかの話だなと思いながら聞いていたけれど、人間界での出来事と同じく自分たちの群れを守るためなら猿山合戦を繰り返して終わりのない勢力争いを続けている姿を見ていても似たようなものだなと思います。

その群れの中でも徳の高いサルが出れば群れはよく治まります。ジャングルなどでも、繰り返される弱肉強食の世界でそういう群れのリーダーがいれば争いも少なくなり平和に修まっていくのです。

それをまず理解し、人間界ではどうあるべきかを考えるときもしもこのサルで例えればすべての動物のことを考えるサルがいたらどうかということなのです。サルが自らの群れのことだけを優先せずに全動物の調和や豊かな森を維持するためにと考えるならばどうなるでしょうか。

人間が自分たち人間のことしか考えなくなると、必ず所属する群れという国家というものを優先し争いはいつまでもなくなりません。それは元々生存していくためのそういう本能を持っているからだともいえます。 しかしそういうものを乗り越えていくことで、リーダーとして自然の調和を司ることができるのだともいえるのではないでしょうか。

自然界では、当たり前にそれぞれがそれぞれで自分らしくいることで調和を永続しています。人間は群れの大きさや安定などのために、何度も何度も争い続けます。

目先の集団の利益ではなく、全体の集団として捉える壮大な理想が必要なのだと思います。
もしも自然界というもので生きている人間としての使命を覚えれば、動物たちや植物たちが安心して暮らしていけるような世の中にしようと思うことはこれだけ科学技術を発達させてきた私たちの役割ではないでしょうか。

また人間の社会が、また目先にならないように如何に全体のために生きようとする人々を育てるかはその人間を全人類としてひとまとまりとして考えるのがすべての国のリーダーの共通理解であるべきではないでしょうか。

今、時代は二度の大戦を経てついに次への舵取りを迫られています。

視野を広げ、本来の人類がどうあるべきかを色の違う、住処が異なる生活ゾーンが分かれているサル集団同士の問題だけに躍起になるのではなく どうやってこの刷り込みから抜け出せるのかを議論して人道というものをまとめていくことではないかとも私は思います。

結局、派閥争いや集団のいがみ合いではいつまでも目先に囚われるのだからもっと全体としての自然界から学び直していくことで原点回帰し新たな役割というものを再定義していくことになるのだと思います。

子ども達と一緒にこれからも考えて動いていきたいと思います。

自然界と人間界2

元々、自然界というものには全体にとってどうかというモノサシがあります。
そして人間界には、その集団にとってどうかというモノサシがあります。

つまりは、自然界は常に宇宙全体としての調和というものを感じさせるものであり一部の特定の個体や集団のみを特別扱いすることはなく遍く全ての生き物たちに無償の慈しみを与え続ける存在だともいえます。

しかし人間界は、一部の集団の維持や存続というものを優先していることを感じさせるものであり自分が所属する集団にどれだけ貢献することができるかということを重んじます。これは例えば、猿が猿の生息地争いをいつまでも続けるようにその集団を維持していくためには時としては争い、時としては調停して折り合いをつけることに似ています。

今の人間界の問題は、全人類という発想ではなく、自らの所属している集団の正義や利権においていつまでも目先の発想から抜け出せないからだともいえます。

集団を形成する動物たちも同じく、自然の法則よりも集団の法則を優先して自然に対抗していこうとする勢力があることも事実です。しかし、人間はより狡猾で如何に他のそれぞれの境界をまたぎ自分たちの陣地を拡げていくかということにいまだに囚われています。

今の時代を観れば、もう自然界あっての人間界ではなくなってきており、その自然界そのものを人間界が征服できるとさえ思っているような感じもあります。動物たちの絶滅を観ても、それぞれの動物にはそれぞれの世界がありました。それぞれの言語とコミュニケーションを通して、自然界の中で平等に暮らしながら役割を果たしながら学んでいたのです。

その境界線を越えてやってきた人間界を押し付けられ、住処を奪われているのです。
そして同じく人間同士の中でもそれぞれの住処を奪われていく小さな種族や、生き方を異にしてきた古からの伝統そのものを壊すような痛ましいことなどもおこしています。

今の環境問題も、自然破壊の問題も、非人道的行為も、戦争も、人権無視も貧困も、すべては人間界で起きている事件であるのです。これは人間が何かの教育により、私たちが自然界の中の人間界であることを分からなくなるようなことを刷り込みでやっているとも言えるのではないでしょうか。

例えば、今の環境問題の本などは地球が泣いている絵を見せて、地球が可哀そうだからゴミは捨てないようにねと小学校などで説明している授業がありました。これは完全におかしな話で昨日書いた愛護という考え方で地球に対峙させようとします。そもそも地球は愛護するものではなく、地球は保護するのは畏怖尊敬の念があるからです。偉大な山や川を守ろうとするのは、人間の科学で何かを施すのではなく、そのままでいただこうという畏む念より生じるのが本来の在り方なのです。

太陽が弱くなってきたから、核爆弾でも打ち込んで活性化させようという発想も、地球がゴミがいっぱいになるから宇宙に捨てにいこうなどという愚策も、すべてはそういう自然を征服できると勘違いしている人間の傲慢さから生じているのです。

人間界というものは、自然界がなければ存在することはできません、人間が食べているものもすべては栽培養殖をあらゆる手を使ったにせよ、そこに空気や風、太陽、土、水などの偉大な恩恵がなければ何も生み出すことはできません。

自然界の中に人間界があるように、他の動植物の世界もまた同じく自然界の中に存在しているのです。それをなくなって可哀そうと思うのではなく、互いを尊重してそれぞれの世界も存在させていく方が真の豊かさであるのだと如何に全体のために目覚めるかが人類における覚醒であるのだと私は思います。

人類は今、大変な過渡期を迎えています。

この自然界を人間界一色に塗り替えようとするような勢いで人間が蔓延っています。そしてそれを書く私もまた人間を深く愛している一人なのです。だからこそ、もっと自然界のことに目覚め私たちが人間界のことに気づけるように色々と手を打っていかなければなりません。気づいても形にできなければ何も変わらないからです。

まだまだ自然界と人間界の様々なズレを書いていこうと思います。

自然界と人間界

ここ数日、野生の生き物との接触をするという機会がありもう一度、自然界とは何か、人間界とは何かを考えキッカケがあった。

そしてそれは同時に、保護というものと愛護という言葉があることを考え直すことができた。
私の定義では保護とは自然界のルールを守ることであり、愛護は人間界でのルールを守ることである。

これを例えてみると、自然界には食べるものと食べられるものがあり一定数が互いに受容循環の中で存在している、それと同時に互いに食べるものとしてまた食べられるものとして生死を平等に共有しているということである。

自然界では、何かの事故に遭い大けがをすればその個体は自らの死を覚悟し受け容れるしかなく、また自分の運命もまたその繋がりの一部としての役割を果たすことで命を丸ごと全うしていると言えるのである。

もしもこの自然の中にある掟を無視し、怪我をした生き物やある捕食動物だけを人間の都合で可哀そうだと決めつけて愛護してしまえば自然のバランスが壊れ捕食される側が大量に増えたり人間界のおかしな癖を身に着けたりしてしまい竟にはその自然の森を破壊して種が生態系を維持することができなくなることもある。

それが人間が踏み込むことを犯した自然破壊というものである。
自然とは本当の意味で聖域なのです。

しかし人間界はこれとは異なり、人間が生息を続けていくために食べるものは食べるものとして栽培や養殖をおこない動植物も人間生活の需要と供給によって存在させている。これを自然だと思い込んで保護するとしただ単に自然に任せていればぐちゃぐちゃの無法地帯になって人間界は争いが尽きず強いては人間界を安定維持していくことができなくなる。

人間には、人間界を維持していくための法があり掟があり人の道に従って互いに助け合っていかなければ人間界というもの自体を成り立たせることができなくなるのです。人間界のルールは自然界では使えないように、自然界でのルールも人間界では使えません、それは人間というものが自然から離れて人間界のみで世界を構成しているからともいいます。

はっきり言えば、私たちが自然界から離れて人間界というものを構成しているのだから今私たちが自然自然と呼んで自然と思っているものは実は本来の自然ではないということなのです。

もう一つのたとえ話をすれば、人間が飼っている動植物とは、自然かというとそうではありません。それは人間が飼うからであり、うさぎであっても犬であっても猫であってもニワトリであっても、あれは人間が人間界で成り立つように飼育したものでありあの子たちを自然に戻せばすぐに死滅してしまうのである。

それはその主は誰かといえば、人間だからです。

この人間というものが飼っている、または栽培するというのは人間界として行っているのであり自然が行うのではありません。

そうではなく、自然で生きている野生の動植物とは自然そのものであるのです。それは主はそれぞれであり野犬、野鳥、野兎、野生は自然の中で存在していて、これを人間界に連れてくれば主は人間になるのだから自然ではいられないのです。

つまり自然の中で野生でいるものは、自然に野に発生しているのであり人間が何かをしたわけではないのです。

この観点で物事を観れば、自然保護というものと自然愛護とは完全に違います。

如何に自然が壊れるからとエコ活動をしているのは人間界における愛護の観点であり、本来自然とは一定の距離感を保ち自然を邪魔しないことの方が自然界の保護の観点であるのです。

動物を可哀そうだからと、どんどん野生であるものを人間界に連れてきてペットとして飼っているのはまったくの勘違いであり、本来は神社などの杜をなるべくたくさん遺し、動物たちが自然界で生きていけるように保護していくことの方が価値があるのです。遺産というのは、どれだけかつての自然を遺しているかということなのです。

言い換えれば、自然界あっての人間界が、その自然界自体を乗っ取ろうとする行為に対してそれだけいけないと自然の遺産を遺そうという取り組みであるのが本質であろうと私は思います。

自然で生きているものを人間の都合ですべて飼うということは絶体にできません。そしてもしもそれでも人間界を維持していくために人間界で共に生きるように選択した動植物は人間が正しく愛を持って見守る責任があるのです。

現代では本当にたくさんの飼い犬が捨てられたりしていますがあれは人間界のの掟に反しています。一度人間界で飼ったものは最期まで責任をとると決めたはずなのに経済的理由が優先されその契約を人間の方が先に放棄するというのはおかしな話なのです。

私からすれば犬が野犬になるのではなく、人間界に絶望して復讐しているのです。ああいうことをやるから、この人間界では争いが尽きずいつまでも命を奪い合う痛ましい事件がなくならないのです。

人間は、本来、皆が仲良くして暮らしていくことで成り立ちます。
人道とは、人間が共に生きていくものに感謝しながら助け合って存在さしめるのです。

今のように間違えば、そのうち人道に反したことから私たちは学び直すことになります。
少しでも早く気づくためにも、この自然界と人間界はちゃんと定義されるべきだと思います。

これは1回では書き終わらないのでまだ続きを書いていきます。

 

相性相応

私は辰年辰の刻生まれなので、いよいよ干支も三回転したことになる。

この動物を用い四季や自然と融合した学問に風水がある。

私は正しく風水を習ったことはないけれど、方角を観て何かが棲んでいると感じるのはその場所その場所に相応しい気力であったり場力、間力などというものが存在しているからでもある。自分のもっとも相性の善い場所にそれ相応の時に尋ねる事で、身体の気の循環のようなものも自然に調和すると実感するときもある。

つまりは、四季の中で自らの気を感じるためにも各方位に意識をあわせていくことは大切なことであろうとも思います。水場には水場、火場には火場、土場には土場、木場には木場、というようにその場に相応しいものがもっとも相性が良いということになるのだと思います。

それ相応の理があり、私も昨年まで学びましたがこの相性や相応というものはとても大切でそこでいくら無理をしても自然の理に適っていない場合は誰がどうしてもうまくいくことはないのです。それは人間関係であっても相性相応があり自らを善く知ることでその相性というものを理解し、それを善く活かそうと思えばそれ相応の場に着く必要があるのだとも思います。そうすることで、より自他の相性より鋭敏に活かすことができるようになるからだとも思います。

風水には、そういう相性というものを理解することで自然に逆らわないことを法則にしていて、それを具体的な都市の配置設計で活かされています。昔は今と違って、自然への畏怖を忘れずに人間の棲家を鳥瞰的に観て正しく設計していたのでしょう。

「南方の池は神様の姿を写すであろう、北方は人々の騒がしい生活を阻むであろう、東方の高く聳える城郭は猛族の進入を阻むであろう、西方にひろがる林は暴風や火災を防ぐであろうからこの場所は神を祀るに最もふさわしい場所なのである。」とあります。

このような思想から、かの平安京の都は東に鴨川、南に巨椋池、西に大路、北に北山と四神相応の地につくられています。一度、その知に足を運びましたが自然豊かで安寧に満ちた場所であったと感じます。人間の猛威までは予測はできないようですが、自然界の中では今でも安心できる場所であるのではないでしょうか。
こうやって自然の理を、霊獣に例えて祭りさらにそれを生活に活かしたのは自然の智慧であるのだと思います。動植物たちも、その地場が移動するのにあわせて変化を繰り返し長い間、自然環境の中で自らの性を活かすために智慧を働かせてきたのです。
風水思想には、私たちが自然と永続的に共生していくための智慧がちりばめられています。それは自然の中で暮らしていく中で本来身に着けてきた私たちの叡智でもあるのです。
最後に、こういう言葉に出会いました。
「東方を守護する青龍は川に棲み、南方を守護する朱雀は池に棲み、西方を守護する白虎は道に棲み、北方を守護する玄武は山に棲むとされていますので東に川、南に池、西に道、北に山で囲まれた地こそが四神に護られた地、すなわち四神相応の地である。」
その中心にいることを忘れず、相性というもの相応というものを正しく理解し今年はまだまだ未知の学び直しを続けていきたいと思います。