自然界と人間界2

元々、自然界というものには全体にとってどうかというモノサシがあります。
そして人間界には、その集団にとってどうかというモノサシがあります。

つまりは、自然界は常に宇宙全体としての調和というものを感じさせるものであり一部の特定の個体や集団のみを特別扱いすることはなく遍く全ての生き物たちに無償の慈しみを与え続ける存在だともいえます。

しかし人間界は、一部の集団の維持や存続というものを優先していることを感じさせるものであり自分が所属する集団にどれだけ貢献することができるかということを重んじます。これは例えば、猿が猿の生息地争いをいつまでも続けるようにその集団を維持していくためには時としては争い、時としては調停して折り合いをつけることに似ています。

今の人間界の問題は、全人類という発想ではなく、自らの所属している集団の正義や利権においていつまでも目先の発想から抜け出せないからだともいえます。

集団を形成する動物たちも同じく、自然の法則よりも集団の法則を優先して自然に対抗していこうとする勢力があることも事実です。しかし、人間はより狡猾で如何に他のそれぞれの境界をまたぎ自分たちの陣地を拡げていくかということにいまだに囚われています。

今の時代を観れば、もう自然界あっての人間界ではなくなってきており、その自然界そのものを人間界が征服できるとさえ思っているような感じもあります。動物たちの絶滅を観ても、それぞれの動物にはそれぞれの世界がありました。それぞれの言語とコミュニケーションを通して、自然界の中で平等に暮らしながら役割を果たしながら学んでいたのです。

その境界線を越えてやってきた人間界を押し付けられ、住処を奪われているのです。
そして同じく人間同士の中でもそれぞれの住処を奪われていく小さな種族や、生き方を異にしてきた古からの伝統そのものを壊すような痛ましいことなどもおこしています。

今の環境問題も、自然破壊の問題も、非人道的行為も、戦争も、人権無視も貧困も、すべては人間界で起きている事件であるのです。これは人間が何かの教育により、私たちが自然界の中の人間界であることを分からなくなるようなことを刷り込みでやっているとも言えるのではないでしょうか。

例えば、今の環境問題の本などは地球が泣いている絵を見せて、地球が可哀そうだからゴミは捨てないようにねと小学校などで説明している授業がありました。これは完全におかしな話で昨日書いた愛護という考え方で地球に対峙させようとします。そもそも地球は愛護するものではなく、地球は保護するのは畏怖尊敬の念があるからです。偉大な山や川を守ろうとするのは、人間の科学で何かを施すのではなく、そのままでいただこうという畏む念より生じるのが本来の在り方なのです。

太陽が弱くなってきたから、核爆弾でも打ち込んで活性化させようという発想も、地球がゴミがいっぱいになるから宇宙に捨てにいこうなどという愚策も、すべてはそういう自然を征服できると勘違いしている人間の傲慢さから生じているのです。

人間界というものは、自然界がなければ存在することはできません、人間が食べているものもすべては栽培養殖をあらゆる手を使ったにせよ、そこに空気や風、太陽、土、水などの偉大な恩恵がなければ何も生み出すことはできません。

自然界の中に人間界があるように、他の動植物の世界もまた同じく自然界の中に存在しているのです。それをなくなって可哀そうと思うのではなく、互いを尊重してそれぞれの世界も存在させていく方が真の豊かさであるのだと如何に全体のために目覚めるかが人類における覚醒であるのだと私は思います。

人類は今、大変な過渡期を迎えています。

この自然界を人間界一色に塗り替えようとするような勢いで人間が蔓延っています。そしてそれを書く私もまた人間を深く愛している一人なのです。だからこそ、もっと自然界のことに目覚め私たちが人間界のことに気づけるように色々と手を打っていかなければなりません。気づいても形にできなければ何も変わらないからです。

まだまだ自然界と人間界の様々なズレを書いていこうと思います。