時代の変化とともに、その時に必然的に発生した法則というものの理解も変わってくる。
これはまるで、根源は同じでも辿り着く道がそれぞれに異なる事に似ている。
つまりは聖人が如何に色々なことを語り遺したものがあるにせよ、その時代時代に価値観は変化するものだからそれを正しく理解するにはその時代の価値観も理解しその上で正しくそれをカタチにしていくことができる人たちが時代時代を担うようになっているといっていい。
しかし、これはとても難しいことでその時と処と位のタイミングが合わなければ場合によってはかえって裏目に出てしまうこともあるのではないかと私は思う。古の先覚者たちの言動や行動を省みていても、正しいことを信じて行いながらも時代の価値観にあわなければどうしてもその人にしか観えない真実を周りが理解することができずその人を正しく活かすことができなくなっているようにも感じる。
時処位というのは、人間界と自然界との絶妙な組み合わせにより様々な目覚めのキッカケを与えてくれているものではないかと私は思う。
熊沢蕃山のことばの中に、 「山水の地理に通じ、神明の理を知る」というものがある。
これは、太虚といった無や空を体得するのにまずその自然の地理を善く学ぶことでその霊妙な働きや法則を知ることの大切さを説いている。私たちは、もちろん人間の中にいて人間から様々なことを学んでいる。
しかしそれ以前に、私たちの先祖はみんな人間より前のものから学んでいたものがあった。それは私たちを創造したものがどのようなものでそれから自分の大極を理解し太虚というものの中で生命を悠久に育んだともいっていいのではないかと私は思う。
つまりは、過去の聖人や聖賢はいったい何から学んだかということでもある。
時代が変わり、環境が変わり、価値観が変わっても、それでもいつも根源に立ち返れるのはいつまでも永遠に普遍であるものがこの世界にいつも存在することを理解しているからでもある。
そういうものから私たちは何をもっとも大切すればいいのかは、体験がない子ども達へ決して忘れることがないようにと神話に記され語り継がれてきているのです。日本人であればその大和魂とも言える三つの真心によって示されているのは三種の神器を観てもわかります。
これは過去に私たちがもっとも間違いを犯すであろうことを先祖が心配し、語り継ぎ忘れないようにと持戒さしめるために用意したものであろうと思います。
そもそもこの時処位というものがはっきりしていれば、自らが常に潜龍であること尊ぶことができ志気益々盛んに最期まで至誠を貫いていくことができるのだと思います。しかしそういうものを心で学んでいなければ、やはりどうしても時処位に流され後世に実体験としての大切なものを譲り渡していくことができないのだとも思います。
人間は体験したことでしか学べないようにできているのだから、体験したことはずっと体験したものによって心を伝えていく必要があるのではないといつも感じます。
これからも人間はずっと普遍なものに近づき、普遍なものをカタチにしていこうとするのはある種の本能ともいえます。だからこそ、そういう温故知新の気持ちをいつまでも大切にしていこうとするのが人間教育の基本である気もしています。
時処位と正対した先覚者の言葉に色々と深い感慨を受けます。
最後に、熊沢蕃山はこんな言葉を遺しています。
「木がらしに落るもみぢはくちぬともつきせぬ春に華や咲かまし、小夜あらし四方の落葉はうづむともわけゆく道はしる人ぞしる」
たくさんの降り積もった落ち葉をかき分けながら真実の道を辿りそのまま子どもたちに手渡していきたいと願います。