誰かの体験を自分が代わりに行い、それをやってみせて教えるというのは大切なことである。簡単に言い換えれば、自分が体験したことを他人に伝えるということである。
自分がやってもいないのにさも体験してきたかのように話す人がいるけれどそれが評論というものである。分からないものは分からないとし、素直に自分の実践したところまでを話すのならいいけれどそれをさもたくさんやってきたかのようになって知識のみで分かった気になるのが頑固者というものでもある。
頭の固さや柔軟性の欠落というのはこの新たに体験していこうという挑戦する気持ちが前に出なくなるからでもある。自分の今に執着し失敗を恐れて分かった気になってしまえば、人間の頭はすぐに固くなってしまい融通がきかなくなるから世俗の評論に流されやすくなるのであろうと思います。
自分でやってみて、感じたことをまず信じるというのは自分の実践からの体験を優先するということになります。また自分の心がどのようであるかというものを優先するということでもあります。
例えば、自分が過去に大きな失敗をするとします。それから学び得た実体験の気づきを、そのままに同じような失敗をした人たちに伝えていけばそこから必ず共感や共鳴が生まれその体験からの気づきは以心伝心に伝播しいつまでも人の心に残ることになります。
以前、沖縄で戦争体験を語り継いでいるある「おばあ」の話をクルー全員で聴きにいきました。
その時の内容も、またその体験も生々しく改めて戦争の悲惨さを思い知りました。
何度も本を読むよりも実体験した人の話をそのままに聴くことは心にいつまでも刻まれます。
また自分の心がどうあるかといえば、日常ですぐに実体験が出てきます。例えば、余裕がない人では他に余裕を創りだすことはできません。また自分が豊かでない人は、他を豊かにすることはできません。自分が心底、楽しんでいない人は他に楽しみを与えることもできません。つまりこのように、自分の心の状態がそのままに体験として他に影響を与えるのです。
つまり誰かの余裕を奪うのは自分が余裕がないからであり、誰かを迷わせるのは自分が迷うからであり、誰かを苦しめるのは自分を苦しめるからであり、誰かに妥協を感じさせるのは自分が妥協しているからなのです。この逆をすれば、皆が善くなっていくのです。そのための実践、そのための心の修養であるのだと私は思います。
そうやって人道の法則として自分がどうしているのかでしか、人には伝えることはできません。
だからこそ、自分がどうあるかということに自分が誰よりも真剣に生きる必要があるのです。
それを実践体験とも言います。
その実践体験がどうなっているのかを誰よりも知っているのは自分です。
その実践体験をしたのはなぜかを深め、それを如何に世の中へ還元するかが使命なのです。
自分というものは世界に独りしかいません。
だからこそ、実践体験ができるのもその人だけであるのです。
その実践体験を誰よりも深く高く厚くするのは、その人の純粋な本心や理想によります。
子ども達のためにも、実践体験を少しでも多く譲り正しく使命を果たしていきたいと思います。