勇気というのを感じてみるとき、そこに怖さというものがある。
維新回天の原動力になった志士たちが命を懸けて取り組んだことに共感してみる。
すると、その時代時代の既得権益や既存勢力に挑むのだからとても怖いことであるはずで今でいえば想像でしかないのだけれど様々な国家権力や暗殺、集団からの異端視、そこに家族がいて、愛するものたちがいて、色々な差別などもあったはずです。
それでも為したいと思うことがあり、様々な犠牲のもとに大義を貫くということがどういうことか、考えただけで環境だけをみると恐怖です。
しかしかつての偉大な大義に生きた志士たちは、それでも大事なものを守ろうとしました。
その大事なものが自分を超えたものだからこそ、天の意志を感じたのだろうと思います。
人の世の中には絶対的に存在しているルールがあります。
それが義であると思います。
世の中が乱れるのは、その義を重んじず、私我により自利を貪ることより起こるのだと思います。
しかし人は世の中の価値観や人倫が義よりも私我が蔓延る時代は長い物には巻かれよと生きやすい方を選びます。
そういうことではいけないと素直に感じた人たちが、勇気を出すことで変えたのが歴史であろうと思います。このままではいけない、大義があるからこそ為すべきであるのだと本気で生きぬいたからこそ今の私たちが平和に存在しているのだろうとも思います。
犠牲が無駄になるとは何か、それはまるで武士であれば敵討ちをしようと思うのではなくさっさと忘れてしまえと集団的無責任をいわんばかりにそこからまったく学ばないからおかしくなるのだと私は思います。犠牲を払ったのだからこそ一人でも多くの人たちが義に目覚めて改善し続けていくことこそその恩に報いることであろうと思います。
今の時代もいつまでも権力争いは過去の歴史と等しく行われます。
政治が乱れ、人心が乱れ、世の中が荒廃していくのはまったく同じ流れです。
そしてまた繰り返し犠牲が生まれるのです。
その犠牲者たちが報われるよう、そしてこれから犠牲になる人が増えないようにすることが今の私たちの本来の大義であろうとも思います。
人は守りたいものがあるとき、はじめて勇気を出すのだと思います。
そしてその勇気はやはり義の上にあるものであろと思います。
この国は、三種の神器に武士道を鏡としていた時代もあります。もう一度義勇軍ではないですが、新しい仲間たちと世の中を易えるために邁進していこうと思います。