実践学問

学ぶというのは、自分のためにするものと他人のためにするものが世の中にはあります。
しかしこの・・・のためとするこの・・・のためという言葉に誤解がある気がします。

これをもう一度、自分の体験に照らして学ぶとは一体どういうことなのかという本質を思えばそれを紐解くことができるように思います。

自分の体験で学んだというのは、誰かのために学んだのではなく、自分の未熟さゆえに出来事が起き、その体験を通じて真実に気づき学び得たともいえます。それが自らは体験もせずに単に知識を得たのは自分が学んだのではなく、それは知っただけであり気づきは得てはいません。前者は自分の体験によりその辛酸をなめた失敗から自分自身が学び磨かれて玉になっていき、後者は他人の体験のために学を使っているのだから自分自身は学ぶことも磨いたわけでもないのです。

しかし世の中では学ぶのは最初から他人のためにしている人がほとんどで、自分が学問をするのは自分のためではなく誰かにその知識を使うためにとなると一向に自分が成長していくことはできないのは自明の理です。そのために学んでいるものになっては、いくら真理の言葉に出逢っても、いくら偉人の格言を暗記したとしても、自分を磨くことはできません。やっぱりどこからどう考えても、自分の体験に役立つから学ぶのだと思います。

他でも学校では変なことが沢山起きています。例えば、挨拶をするのは自分の礼儀を弁えて心身を正すという自分を修めるために行っているはずです。しかしそれが、誰かに挨拶をさせるために自分が挨拶をするというのは自分のためではなく他人のために挨拶し心身を正させようとするのだからその挨拶は他人のためにということになっています。また本人が人生の中で挨拶をしないことでどれだけ社会で生き難くなるかを体験してからはじめて礼儀の大切さというものを学ぶのであろうとも思います。

そのような体験もしていないし、自分を磨くために礼儀があるとは思わない人にいくらそれを何度も教えても分かるはずはないのです。やっぱり自分の体験した人が、それでは失敗したのだとその人自身が自らを磨き修正しているからこそ周囲は感得していけるのだと思います。

つまり学ぶというのは、最初から自分のために学ぶのであり、言い換えれば自分が学ぶことでしか他人のためにならないということが学ぶということになっていることを言います。

吉田松陰先生が遺した講孟余話にこういう文章があります。
このブログの内容からしても、教えるためではなく自戒のために書きますが

『人の師とならんことを欲すれば、学ぶ所己が為に非ず。博聞強記(はくぶんきょうき)、人の顧問に備わるのみ。而して是(これ)学者の通患(つうかん)なり。吾輩(わがはい)尤(もっと)も自ら戒むべし。凡そ学をなすの要は、己が為にするにあり。己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。而して己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自(おのずか)ら人の師となるべし。人の為にするの学は、人の師とならんと欲すれども遂に師となるに足らず。故に云わく、「記聞(きぶん)の学は以って師となるに足らず」と。是なり。以上三章、人の毀誉に拘わらずして己を脩(おさ)め実を尽くし、言語を容易にせず、実行を以って自ら責任とし、人の師となるを好まずして己の為にするの実学を脩むべきを云う。意並びに相似たり。皆己を脩め実を務むるの教えなり。』

これは『他人の師となることを望んで学ぶ事は、自分を磨くためのものではなくなる。物事を広く聴き知り、知ったり記憶するための学問をすれば、他人の顧問や質問に答えることだけで自己満足するために学ぶことになってしまいます。これは、学者に共通する弊害です。このことを私は何よりも戒め気を付けていることです。そもそも、学ぶということ自分を磨き、人格を高めるためにするものであるのです。自分のために学問をすることは、志のある人がする学問なのです。他人を満足させるための学問は、とるに足らないような人間のする学問であろうと思います。自分を磨くための学問は、願わずとも自然に望まれるように人の師になってしまうものなのです。ところが、他人のためにする学問は他人の師にいくらなりたいと思っても、結局は他人の師となることはできません。だから孟子はこう言っています。「単に古い書物を読んで暗記してそらんじている人の講義は質問を待つだけで聞く人の意欲や学力を考える事もできないので師となる資格はないのです」と』

自分の教えようと思う心や、教えてやろうといった気持ちに実学にならない傲慢な気持ちが隠れているのではないか、深く深く反省します。実際は、何のために日々の学びがあるかといえばすべてにおいて自分を磨き修めるために道を志、同志と歩んでいるのだと思います。

それは決して分からない人を分からせるのではなく、出来ない人と出来ようとさせることではなく、ただ思いやりと真心で自らが学び続けて実践を示していけばいいのであろうと改めて思うのです。

この実践の学問というのを私は実学と呼びます。そしてこの実学の鑑のような方が、私が師と仰いでいる人物であるのです。それなのに私の中にはまだまだ自分の体験してもない出来事をさも知っているだけで諭そうとしたりという高慢な気持ちがあることに気づきました。わたしはまだまだ本当に分かっていないことばかりで未熟なのだと痛感することばかりです。

いつも生き方の初心、誠心誠意、自分から真心を尽くして愛を実践していくことで自他を丸ごと幸せにしていきたいと心願を立てたのが私の志でもあります。子どもたちのために、自分を磨くことを怠らず受け容れて学び実践していきたいと思います。

有難うございました。